「或る日の運動」の続き
牧野信一

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 ――「泳ぎ位ゐ三日も練習したら出来さうなものだがな!」
 私は、此間うちから、かくれて読んでゐた水泳術の本を、鍵のかゝつた本箱の抽斗しから取り出して来て開いた。
 そして私は、本にならつて腕を挙げたり下げたりして見た。私は、座敷に入つて、腹逼ひになつた。
「一、二、三!」
 ――――――
 彼は、某雑誌に出てゐる自分の『或る日の運動』といふ題の小説を、そこまで読んで当然次の頁をめくつて見ると、そこには他の人の文章が載つてゐた。好くある頁の入れ違ひかとも思つて、隅の頁附けを験べて見たが、そこは間違ひなく数字が順を追つてゐた。
「はてな……」と、彼は空々しく首を傾けたのである。つまり、その雑誌の上では、彼の自作である『或る日の運動』は「一、二、三!」――で、終つてゐるのだ。
 その小説は彼が、前の年の暮、十一月の下旬から十二月へかゝつて「△△」といふ雑誌の為に書いた小説なのである。その雑誌は、翌月号が出ないうちに、突然解散することになり、『或る日の運動』は校正刷りになつて彼の手もとへかへつてゐたのである。――彼にとつては、決して発表したい程の小説ではなかつた。だから彼は、反つて安易な心で、それは書き損ひの原稿を容れて置く箱の隅に投げ棄て放しにして置いた。……余談だが彼は、書き損ひの原稿を丹念に溜めて置くといふ無駄な癖を持つてゐた。
 ずつと後にでもなつて、余程退屈な時でもあつたら『或る日の運動』は、細かく書き直さうといふつもりだつたのを、何故彼が、間もなく何の訂正も施さずに、この某誌なる雑誌に登録することを承知したか? といふ説明は省くが、兎も角彼は、それを新しい「某誌」に出したのである。彼が持つてゐた校正刷りとは別に、「某誌」の方から第三校といふ誌のついた校正刷をとゞけて寄したので彼は、今まで見たどんな校正刷りにも、それ程夥しい誤植活字のあるのは見たこともないそれを、厭々ながらたゞ誤植個所を指摘して置いたのである。活字になつてゐる文章を訂正したり、増減したりすることは彼は、常々から好まぬことでもあつた。――何時でも彼は、作の終りに何年何月といふ脱稿した月の記を附して置くのだが、この校正の時も終りの「十三年十二月」と、いふところまで、間違ひなく読んだのである。だから云ふまでもなく、「某誌」に出てゐる結末には、その誌はついてゐなかつた。
 大概彼は、雑誌に載つてから自分の文章を少くとも一度は読み返したのが常だつたが、今度だけは、それが載つてゐる雑誌が来てから十日以上も経つたが、その機会を逸してゐたのだ。おそらく彼が、二三日前の晩偶々途上で、先輩小説家のC氏に出遇はなかつたら、何時になつてそれを手にしたか解らなかつた。C氏は、彼に、
「君の、『或る日の運動』といふ小説を読んだよ。」と、告げたのである。それだけでも彼は、意外に思ひ、そして心から恐縮した。――C氏は、続けて云つた。
「あれは君、仲々面白い小説だよ。勿論君のものゝうちでは佳作に属すべきものだよ。これからも、あゝいふ方面のものも大いに書き給へよ。」
「さうですか!」と、彼は嬉しく答へた。
「あれは、旧作ぢやないの?」
「旧作ぢやないんです。」
「さうだらうね。」
「旧作ぢやないんですが、あれは七八年前の記憶なので、だが追憶風にはしなかつたんですが、……それだもので……」と、彼は一寸口ごもつて「どうも香が抜けてゐるやうな気がしてゐたんです。」……書き直さう、とも前に一寸思ひもしたが実際には彼は、そんな根気はなかつたのだが、偶然? でC氏に讚められたので「……それに、もう一辺丁寧に書き直さなければ、発表し憎い気持だつたんです。」などゝ、勿体振つて、意味あり気に吹聴をしたのだ。そして加けに、あれは初め何々からの依頼で書き、その後斯んな事情で、不満なものにも係らず訂正もしないで、あそこに出したんだ――などゝ、くどくどゝ余外な話を附け加へたりした。
「そんな必要はないさ。」と、C氏は笑つた。
「書き直す気持があつたら、あれは未だ相当に書ける材料だから、新しく書き給へよ。君は、此頃最近の実生活を主に材料にするらしいが、あゝいふものだつて少しも熱が醒めてゐないから、遠慮なく書き給へよ。」
 彼は、C氏の言葉に心で感謝したのだ。
 縁側の日向に寝転んで、彼は、ブロチンとかといふ熱湯に溶かした咳の薬をすゝりながら、C氏の言葉に励みを得て『或る日の運動』を読み返したのである。――この頃、彼は、最近の実生活を源にして、彼としては相当に長い、そして、心に何の予猶も持つことの出来ない程苦しい或る小説に没頭してゐる最中だつた。息も絶へ絶へになりさうな苦しみだつた。一晩書いては、二晩続けて泥酔をする日ばかりを送つてゐた。そして未だ、稿半ばにも至つてゐなかつた。彼は、その小説で、父の死後に於ける母に対する子の或る苦しみに参つてゐた、そんなことより他に書くこともない愚劣な己れを呪ふ心から書き始めてゐたのである。自ら拵へた道徳の鞭に打たれて、悲鳴を挙げてゐるのであつた。
 そんな場合だつたので一層C氏の言葉が、彼を明るくして呉れたのである。古い、あゝいふ種類の追憶にも、自分の文章の脈があるか、と思ふことは、彼にとつては、可成りの慰めに違ひなかつた。――現在のそんな「苦しさ」に没頭することは、寧ろ、愚かな業で、徒に心も文章も支離滅裂にしてしまふ怖れさへ感じた。
 それで彼は、『或る日の運動』を読み始めたのであるが、たしかに指摘した筈の多くの誤植活字が、一つも訂正されてゐないので、多少の迷惑は感じたが――「だが私は、自分の小賢しき邪推を、遊戯と心得てゐた頃だつた、愚昧な心の動きを、狡猾な昆虫に例へて、木の葉にかくれ、陽りを見ず、夜陰に乗じて、滑稽な笛を吹く――詩を、作つて悲し気な微笑を洩してゐた頃だつた。」とか、「山村は、多少の恥らひを含みながらも、いつの間にか自分の技倆に恍惚として、息を衝く間も見せず鮮かに鉄棒に戯れた。天空を飛翻する鳶の如く悠々と「大車輪」の業を見せて、するりと手を離したかと見ると、砂地に近いところで伸々とした宙返りを打つた。べリイブライト……Fは思はず叫んで照子と私を顧みた。」とか、「Foolish といふ言葉に、軽蔑や嘲笑の意味が含まれてはゐないんだな、こいつア、返つてどうも堪らないぞ! 患者にされてしまつたわけなんだな……Foolish boy! A Foolish boy……私は、そんなことを呟きながら。」とか「妾だつて、洋服を着ければそんなに肥つて見へやしないわよ、妾は、さつきもお湯に入つた時、鏡の前に立つて見ると自分の格構に見惚れたわ、何だか自分ぢやない気がするのよ……と、照子は」とか、といふ風に、読んでゐると彼は、この頃の自分に引きくらべて、退屈ではあるが爽やかな快さを感じた。そして彼は、読み通して来ると、
「一、二、三!」で、その小説は終つてゐるでないか!
「この後が、少くとも二頁あまりなければならないのだ。」と彼は口を突らせて呟いだ。――大した不快を感ずる程の熱情もなかつたのではあるが、一寸酷いと思つた彼はあの箱の中から、去年戻つて来た儘になつてゐる最初の校正刷りを出して、験べて見た。――落ちてゐたのは二頁あまりではなくて一頁あまりだつたが、そんなことは如何だつて関はない! 此間の校正の時に、頁の順が入り乱れたりしてゐたので自分は、わざわざ終りまで訂正した番号数字を記入して渡したではないか! などゝ彼は、不平を洩した。
 斯んなことで、肚をたてるなんか子供じみてゐるぢやないか! そんなに思つて彼は、つまらない苦笑を浮べたりしてゐるうちに、間もなく心から肚がたつてしまつた。
「斯んなところで、断ち切られて堪るものか、無責任にも程があるといふものだ。」
 一、二、三! これは、その中では「私」となつてゐるが実際は彼自身である主人公が、独りで或る運動に取りかゝらうとしたハヅミの、てれ臭い掛け声なのである。
「チエツ!」と、彼は思はず顔を赤くして舌を鳴した。
 一体彼の小説は、己れの痴想ばかりを厭にギリギリと綴り合せた態の文章だつたから、何処で断ち切らうと、或ひはまた如何続けようとも、大して効果に触れる程のものでもなかつたのだが、そんなことは彼は忘れてしまつて、大変に自尊心でも傷けられたやうな憤慨を感じたのである。
「何としても、一、二、三! が、結末ではやり切れない。……安価で、気障な技巧にさへ見えるではないか?」
 彼は、反つて「自然の皮肉で――」などゝ思つた――自然の皮肉で、軽卒な思想の持主である己れを、巧みに冷笑されたやうな切なさを感じた。……つまらないことに興味を持つたり、愚かな心の戯れを美文調子に歌つたり、翻つて思へばどれもこれも鼻持のならない文句ばかりで――そして、この頃の何とかの苦しみとかも……皆な軽蔑に価する程の無用のことのやうに思つて、彼は、がつかりとしたのである。以前往々同人雑誌の友達などが、お前の小説は悪い意味で技巧的である、などゝ、批難されて、何の反す言葉もなかつた頃のことなどが、今更のやうに思ひに浮んだりした。
「偶然、こんなところで断ち切られた方が、反つて相当だつたのかも知れない、あの先の結末は一層気障な文章ぢやないか。」
 彼は、ふとそんな馬鹿なことを思つて、間の抜けた笑ひを出した。それにしても、斯んな場合に、斯んな途方もない妥協心を持たうとする、姑息な弱さには辟易せずには居られなかつた。――そんな弱さに凝つと閉ぢ籠つてゐると彼は、何処までも心が、どんな刺激に対しても、吸はれて煙のやうな妥協性で、見る間に消えてゆくやうな思ひがした。消えまいとして、馬鹿な弱さを振り払つて、変な力を胸に思ひ切つて忍ばせて見ると、浮びあがる己れの姿は千辺一律で、物体に近い程の愚より他になかつた。彼は、もうとうに己れの愚を笑ふことには飽きてゐた。――彼は、自分の凡てが、態度、風彩……そんなものまでが、気障で、気障で、堪らなかつた――上滑りの感情で、定り決つた一つの考へ方の下に心を浪費して来た罰で、今では、そんな風に、空想力と感情の鈍い青年が往々落ち入る珍らしくもない患者になつてゐることを彼は、未だ気がつかなかつた。これもその箱から見つけたものであるが、丁度一年程前「自己紹介」といふ題で、返事を徴された時の返事であるが、曰く――どういふことを書いていゝのか何の見当もつかない、写真は笑顔を示さずに撮るのが普通だらう、そして男ならば成るべく深刻気な苦味を添へて――。だが僕には、深刻もなく苦味もないから六ヶしい顔も出来ない、だがまさか笑つた顔も見せられない、笑ひが必ずしも朗かの表象でもなからうが、兎も角僕は笑へないのだ、「泣き笑ひ」といふ心持もない、そこで極くあたりまへに、とならなければならないのだが、その落ちつきはまた持合せぬ、写真は例に過ぎない、この惨めな心が、だ。――「これは、たしか去年の冬だつた、未だ親父が生きてゐた頃だつた。」彼は呟いだ。その頃から、彼は、自分を故意に今のやうな、「病人」にしてしまつたのだ。また冬が来たのである。
「冬は駄目なんだ、俺は――」と、彼は意味あり気に呟いだ。
「僕は、毎年冬は駄目なんだよ。」と、彼は自分よりも若い友達に、云つた。「僕は、寒さには何の抵抗力も持たないんだ。――心が縮んで、干からびてしまふんだ。……だから散歩は御免蒙るよ。」
 理由を云ふ必要もないのに彼は、気分を衒つて余外な説明をした。心が縮んで、干からびてしまふんだ――それも勿論わざとらしい自己吹聴ではあるが、もう少し常識的の言葉で云へば好さゝうな筈だが、加けに相手は文学嫌ひの工科大学生のBといふ運動家なのだが、これは彼の感じの上では嘘でもなかつたのだが、「冬に……」とか、「寒さ……」とかなどゝいふの
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