使用した矢は、二度目には役にたゝないぢやないか、最後の毒矢を放つて打ち倒れてしまへば寧ろ幸福かね。」
「打ち倒れてしまふことを怖れるんだよ。」
「この分で行つたら、間もなく僕の心は、君の云ふ通り、風の如くに干からびてしまふに違ひない。」
「風の如く、だなんて僕は、云はないよ。」
「一辺使つた矢を削り直すかね。いろいろ工夫をして、矢尻りを様々な形に拵へ直すかね、……ところが、その工夫の頭が無い、削り直す小刀はすつかり錆びてしまつた。」
「君は、楽天家だよ、そんなことを云つてゐられるんだから……」
相手は、ムツとして横を向ひてしまつた。
また彼は、別の友達に斯んなことを云つた。「僕は、此頃発明家といふ者に同感してゐるよ。スリ鉢がグラグラしない道具を発明した苦学生の新聞記事を見た時も、可成りな尊敬を払つた。これも新聞の記事だが、英国の或る男で、水の上を自由に歩くことが出来る靴を発明した奴があるぜ。」
削り直す小刀だとか、発明だとかと、そんな無稽なことを喋舌つたことを思ひ出して彼は、馬鹿/\しい苦笑を洩した。
母と襖を隔てゝ彼は、日本画家の田村と退屈な話を取り交してゐた。田村は彼れよりも十歳ばかり年長の、彼の父の酒飲友達だつたのだ。――前の晩の宿酔で頭が重く、これから汽車に来ることを思ふと、吐気を感ずる、あしたに延ばさうかな――彼が縁側に丸くなつて、陽を浴びて寝転びながら、そんな退儀さを想つたり、無稽な空想に走つたりしてゐたところに、田村が来たのである。
「今日は、ひとつ私とゆつくり飲まうぢやありませんか。」
「動くと吐きさうで仕様がないんです。」
ゲツゲツと喉を鳴しながら彼は、顔を顰めた。それだけのことを喋舌ツても、胸に溜つてゐる苦い酒が揺れて、今にも込みあげて来さうだつた。「ウツ! あゝ気持が悪い。」
実際そんなに苦しかつたのだが、そんな状態を隣室の母が耳にして、何か意味あり気に感じはしなからうか――彼はふと「これも遠慮した方が好いだらう。」と、気附いた。
「昨夜は、大分愉快だつたさうですなア!」
「なアに……」
「お母さんと一処の遊興ぢや、無事で好いですね。」
「まつたくね。――ウツ、ウツ、ウツ、どうも宿酔は苦しいですね、どうも、いかん! 気持が悪るくて……阿母がそんなことを云ひましたか?」
田村は、不決断な笑ひを洩した。彼は、うつかり余計な質問を附け加へたことを後悔しながら、今にも嘔吐が堪へ切れなくなりさうに激しい咳を続けた。
清友亭に来た母は、気嫌が好かつた。あんな母を彼は、嘗て見たことがなかつた。
「稀に此方へ帰つて来た時は、お酒を飲むのも好いだらうが、東京へ行つたら気をおつけよ、お前はあまり癖の好くない質だから……」
この母の言葉の前半は、今迄の彼女なら決して云はない言葉である、そして後半は他人には母らしい心遣ひのやうに響くが、彼には穏かに聞き逃せなかつた。――癖が悪いと云つたつて僕は、たつた一辺あんな騒ぎを演じたゞけで、それ以外に別段阿母さんの前で乱暴な酔態を示したことはないぢやありませんか――彼は、斯う訊き返してやりたかつた。尤もらしく、母親らしい様子を取り繕つて恥も無さ気に済してゐる母の、黄色味の勝つた容色を眺めると彼は、常套的な疳癪を通り越して、油汗の滲む滑稽を感じた。
「普段は、優しいんですが、どうもお酒が過ぎると……親譲りの血統で――」などと母は、巧みに笑つてお園を観た。
「でも、さつぱりしてゐらつしやるから好うござんすわ。」
「どうだかね……」と、彼は、でれでれした濁声を挙げてセヽら笑つた。せめて、これ位ひに母親を無視した遊蕩的態度を取つて、胸に凝り固まつた滑稽感を散らしたかつた。
「病気が起るといけないから……」
「えゝ、えゝ。」と、彼は、空々しく点頭いた。
「お酒では随分厭な思ひをしましたから。」
「御心配が多うございましたからね。」などゝお園は、変に大業に点頭いてゐた。彼は、一層空々しい気がしてならなかつたが、確りと堪へなければならないものを感じてゐたので――酒でも飲まなければ、反つて病気になつてしまふ――と憎態な調子で口に浮びかゝつた言葉を慌てゝ飲み下した。何としても父親との場合のやうに、陽気になれなかつた。
「――父を売る子! 今度は何を売るんだ。」
酔つた友達に、斯んなことを彼は問はれたこともあつた。「父を売る子」といふ題の短篇を彼は、書いたことがあつた。
「もう何にもない、すつかり売り尽してしまつた。困つたよ。」
彼は、明るい心でそんな戯語が云へるやうになつた。妙な、厭な言葉だが、父を売る心には、今にして思へば、幼稚な罪を感じたゞけで、甘く明るい影もあつた。同じく親であるにも関はらず母に想ひを運ぶと、どうして斯んなにも陰惨な影に苛れ、黒血を浴びる程のグロテスクな罪にばかり
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