まア入つて一杯やらうぢやないか。」
 斯う云ひながら父は、背中をかゞめて小屋の中へ入つて行つた。――長い間互ひに口も利かずに不和で過して来たことは、何といふつまらない話だつたらう――彼は、そんな心持で父のうしろから続いて行つた。お蝶とその老母が、水汲みから帰つて来て彼の姿を認めると、二人とも同じやうに涙を滾した。
 土間に石ころで囲ひをした団炉があつて、その周囲には手製の椅子が三つばかり置いてあつた。椅子は如何にも粗野だが、異人の子供のやうな面白味を彼は、感じた。半分が土間で、半分が板の間になつてゐた。父は、散り散りに虫の食つた黄色い毛糸の、胸にCの字のマークをはぎ取つた痕のある昔のスポーツ・ユニフオームを着てゐた。頭には同じ色の頭巾をかむつてゐた。彼は、笑つてその格構を指差した。
「阿母の意地悪るには驚いた、此方には毛布一枚寄さないんだ。俺は寝るのもこの儘だよ、この間トランクの底から探し出したシヤツさ。」
「二十年も前に、そのシヤツを着て学校の運動場で撮つた写真を送つて寄したことがあるように思ふ……」
「ロビンソン物語りかね。」
 天井や窓を見渡しながら、笑つて父はそんな戯談を云つた。
「ロビンソンは独りだぜ。」
 茶飲み茶碗などで酒を傾けてゐるので、忽ちポツとして来た彼は、卑し気な笑ひを浮べてお蝶を振り返つた。
「ワツハツハ……止せ/\。」
「おい、お光ツちやん――お酌だア、お酌をするだアよ、何処かその辺へ出かけて姐さんとか友達とかを四五人呼んで来ウよう。」
 彼は、景気の好い声で、茶碗の盃を振り動かせながら叫んだ。
「呼びになんて行かなくつたつて、若少したつとやつて来るよ。」
「呑気で面白いなア!」
「馬鹿ア! 俺アもう無一物になつてしまつたんだぜえ!」
「アツハツハ、仕方がないですなア!」
 なア! とか、だア! ぜえ! とかと語尾にばかり筒抜けた濁音を響かせながら、別に可笑しいこともないのに厭にゲラゲラと笑つてばかりゐる不思議な父と悴を、お蝶達はきよとんとして眺めてゐた。
「阿母さんが、阿父さんの意久地なしには驚いたなんて云つてゐましたぜえ、さつき!」
「勝手なことを云はせておけ!」
 彼は、さつきの母の物語りを伝へて父と一処に笑ひ、お蝶達の苦笑も眺めてやらう、と謀つたのだが、前にはさういふ話になると面白がつた父にも係はらず、ふつと暗く厭な顔をして横を向いてしまつたので、悪戯の心を突然白けさせられた。――母の云つた通り少々頭が怪しくなつてゐるのかな! 彼は一寸さう疑つても見たい位ひな淋しさを味つた。
「俺が死んでゝもしまへば好い位ひに思つてゐるかも知れないよ、彼奴等は……」
 父は、そつと口のうちでそんなことを呟いだりした。
「何をつまらないことを云つてゐるんですよ。彼奴等とは何ですかね、さつぱりわけが解りやアしない。」と、彼は不平を洩しながら、病人を眺めるやうな眼つきで、そつと父を窺つたりした。タキノ家には、代々精神病の血統があるのだ。よく彼の母は、タキノ家を軽蔑する為に「気狂ひなんていふものは、肚の据らない臆病な人間の罹る病気なんだよ。お前もお酒を飲むと少々怪しいよ。」などと云つたこともある。一代に一人宛出るといふ話だつた、父の叔父がその病気を病ひ、父の弟も亦それに罷つたので、そんなことを云ひ伝へたのかも知れなかつたが――。
「俺を気狂ひ扱ひになんかするんだから、失敬極まるぢやないか。」と、父は云つた。彼は、ゾツとした。叔父の場合で彼は、幾度も経験したが、病ひの初めは「俺を気狂ひ扱ひにした。」と、称して怒鳴り出すのが常だつた。
「嘘だらう、――僕は、気狂ひぢや閉口したからね、言葉だけでも御免だ!」
「気狂ひどころの騒ぎぢやないや、芝居ぢやあるまいし………ねえ、おい!」と、父はお蝶に呼びかけた。お蝶は、落着いた笑顔を示した。――「お蝶とお光は、この先きは法界節にでもなるかな、ハツハツハ、法界節だつて屹度面白いぞウ!」
「厭だ/\。」と、彼は云つた。「僕ア、ひとつ……」
 彼は、半分戯談に云ひ続けたが
「僕ア、ひとつ……」とまた口ごもつた。
「若旦那がしつかりしてゐらつしやるから……」
 お蝶は、如何にも彼の虚勢を信じ切つてゐるといふ風に、細い眼を慎ましやかに伏せた。父と彼は、思はず酔漢らしい眼を見合せてにやりとした。
 ――言ふまでもなくその頃の父の気持は今になつて思へば、凡そ数学の才に鈍い彼にとつても、暗算で出来る算術なのである。

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 彼が、そつとのれん[#「のれん」に傍点]の蔭から覗いて見ると、あの異人の子供の手工を想はせる椅子が二つあまつて並んでゐた。重苦しく酔つて、他合もない感傷に走つてゐる彼は、奥の方に何んな人がゐるのかはつきり解らないと思つた時に、若少しでふとこ
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