彼は、さう云つて、舌でも出したかつた。お蝶の処へ行つて見たいのも確かには違ひなかつたが、勿論母になど云ふ必要はないのだ。寧ろ彼は、東京に来て以来、虫のやうに寒さに縮んだ生活をしてゐるので、稀にはお蝶でも訪ねて、朗らかに威張りたいのである。彼が喋舌ることを徹頭徹尾感心して諾く人間は、お蝶とお光より他になかつたから――。
「そんな馬鹿なことがあるものかね、あゝいふ商売の女なぞは呑気なものだよ、昨ふのことなぞ覚えてゐるものぢやない、お前のやうな人の好いことを、何時までも云つて居られるものぢやないよ。」
 幸ひあなたは私といふ悴があるから、そんな好い気な熱も吹けるだらうが、どつこい! 親父にとつてはあなたよりもお蝶の方が好きな人間だつたんだからなア、フツフツフ、お蝶どころぢやないんだ。あなたは知らないだらうが、Nといふ混血児の娘だつてあるんぢやないか――彼は、そんな途方もない思ひに走つた。今迄彼は、親に対して所謂不孝な観察を起す場合には、いくらか自責の念にも駆られたが、今では伸々と手足を延して、般若の心で笑つてゐられる気がされた。なまじ母親を、慰めたり、同情したりする立場に置かれるよりは、こんな状態の方が自分の心に適つてゐるやうにさへ思はれた。親父の場合よりも不気味な不味《まづ》さはあつたが、それだけに心は反つて微妙な悪辣の光りを放つやうな気がした。――これ位ひの刺激がないと、自分のやうな鈍い神経の男は、忽ち生気を失つてしまふに相違ない、何と云つても俺は親を相手にして徒らな観察を回らす時が、一番生甲斐を感ずるんだ、それより他には能はないんだ、親父が死んだからと云つて、髪を切つて、墓参を業とされるよりも、見るのは嫌だが、若返つた母親を感ずる方が面白い、俺は薬液の切れかゝつたモヒ中毒患者だつた、阿母の注射で漸く心臓が躍動して来た――彼は、そんな馬鹿な想ひに走りながら、電話をかけたことに満足した。
「いや、あしたの晩帰ります、いろいろ。書類の方だつて私が験べなければならないでせう、晩迄に整理して置いて下さい、それで今一寸電話を掛けたのです。」
 彼は、徐ろに斯んなことを云つて、母の返事も聞かずに、悠然と受話機を掛けたのである。
「阿母の御気嫌伺ひさ。今になつても僕は阿母の気嫌を取らないと、生活することが出来ないんだから心細いよ。」
 彼は、晴々しく笑ひながら大原に向つて、そんなことを云つた。
「随分暫らく会はなかつたね。君が此処へ来てゐるとマザーは寂しいだらう。」
「さうらしいよ。」
「あゝいふ堅い阿母さんだから、そしてしつかりしてゐるから、未だ君だつてそんな呑気なことを云つてゐられるんだよ。少しは有り難味も解つたかね。」
 古くから彼の母を知つてゐる大原は、そんなことを云つた。
「解つたね。」と、彼は戯れ気に笑つた。母を嘲笑ふ心か? それとも己れを嘲笑ふ心か? そんな区別は解らなかつたが、彼の胸は、常人の口にしない食物を悦んで味ふ食道楽者を真似て、口に入れた食物を見得で鵜呑みにした時と同じ擽つたい克己心に満ちてゐた。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

「清友亭のお園さんは、この頃来ませんかね。」と、彼は母に訊ねた。
「この間一辺、阿父さんのお墓参りに行つた帰りだと云つて寄つて呉れた。」
「さう、そりア感心だね、久し振りで今晩あたり行つて見ようかな。」
 こんな言葉は、半年前なら決して母の前で許されなかつたものである。
「あすこも仮普請などで、また商売を初めたんだがさつぱりはやらないさうだ。」
 そんな事は彼は、知つてゐるのだ。清親との騒ぎの時の彼の本陣である。あんな騒ぎはすつかり忘れた顔をして、二人とも済してゐるが、彼以上にその時の話に触れられることの厭らしい母を思ふと、彼は、遠回しにでも母の虚飾を突ツついてやりたかつた。母は、彼の云ふことを大方おとなしく受けいれた。そんな母ではなかつた。――これは自分以上に母の心の方が荒んでゐるのかも知れない、野となれ山となれ(母は以前、往々その言葉を用ひて彼の放埒を責めたことがある。)――母こそ今は、そんな心になつてゐるんぢやないかしら? などと思つて彼は、巧利的な心を動かしたりした。――弟の次郎が、隣りの部屋で低く電灯を降した机に凭つて筆記のペンを動かしてゐるのを眺めても、彼の胸は詰つた。彼の居ないことを好き幸ひにして、家中の者を呼び寄せて買ひ喰ひでもしてゐるだらう周子達に比べて、父を失ひ、不気味な母に見守られ、そしてたつた一人の放埒な兄より他にない次郎が可憐に思はれたりした、いつも兄の轍を踏んで、図太い不良青年にでもなつてくれたら、どんなに自分は救かるだらう――彼は、酷く詠嘆的にそんなことを思つたりした。
「次郎は今度も四番だかの成績ださうだ。この分で行つたら来年、四年で一高の試験が受
前へ 次へ
全21ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング