奴の我儘はどうだ! と、彼は、ひとりで力んだ。無能、無智、不器用、そのやうな周子に、嘗て彼は、安易な組みし安さを持つてゐたのだが、それに無神経な露骨な自我を加へたこの頃の彼女には、辟易せずには居られなくなつた。はじめて主人といふものになつた彼の、小賢しい焦慮もその不用意な胸や頭を醜く、歪めてゐたには違ひなかつたが。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 今日こそは、Fに手紙の返事を書かなければなるまい、彼女も結婚して三年目ださうだ、そして一人の子の母になつたといふ話だ、……そしてこの俺も、周子と結婚して既に五年か!
 彼は、今更のやうにそんなことをぼんやり考へたりした。だが彼のやうな消極的な青年に、青春を謳歌したり、結婚を悔ひたり、新しい恋を求めたりする程の溌剌さはなかつたが、妄想の遊戯で、稍ともすると底の見へ透いた怪し気な想ひに走つた。今になつてFの姿を、こんな形ちで思ひ出すなどは、大変徒らなことに違ひなかつた。
「あゝ、厭だ/\、周子、周子。」
 彼は、力もなくそんなことを呟いだ。
 彼が三歳の時、妻を嫌つて(多分さうに違ひない、と彼は久しい前から断定してゐた。)外国へ行つた父である。少しく無法過ぎるところが不快だが、もう死んでしまつた父の話である、そして昔のことである、お伽噺のやうなものだ――彼は、お伽噺の主人公である父の衣服を借着して、遥々と海を越えて行く薄ら甘い情けなさに酔つた。
「ヘンリーは死んでしまつたが、彼の忠実な悴は、丁度彼が、昔々、彼の妻子を棄てゝこの国を訪れて来た時の心に比べて、何の新しさも持たない僕が、斯うしてたつた今お前の国に着いたところだよ。」
 彼は、先づFにさう云はなければならなかつた。ヘンリーといふのは、異国の友達の間で称ばれてゐる父の字名である。和名の、頭文字のHをとつたのださうだ。
「お前のやうな臆病者が、好く独りで海を渡つて来られたね。」
 Fは、青い眼を輝かせて、おどおどしながらあたりの見慣れない風景に見惚れてゐる彼の肩を軽く叩いた。
「この頃は、臆病ではないんだ。臆病でなさすぎる為に、母や妻や子と別れて斯うして遥々と出かけて来たんぢやないか。」
「お前の笑ひ方は、ヘンリーに似てゐるよ。」
「F! 結婚してお目出たう、大変云ひおくれてしまつた。」
「お前にも同じ言葉を返さなければならない、ワタシは。」
「それを快く享
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