つてゐるのも一層堪らなかつた――「大原の店へ行かう。」と、彼は気づいた。彼は急に脚を速めて引き返して、乗合自動車に乗つて日本橋まで行つた。
大原の店へ行つた時は、もう夜だつた。大原は、仕事を終へたところでテーブルに凭つてぼんやり煙草を喫してゐた。
電話は、そんなに待たされもしないで通じた。
「病気でゝもあるんぢやないかと思つた、あまり便りがないので――」
「皆な丈夫……」と、彼は云つた。
「今年は寒さが強いさうだね、そつちは。」
「えゝ。」
「此方も、何しろ家がこの通りだからね、私は此間風邪を引いて一週間も寝てしまつた。」
「もう、すつかり治つたの?」
「えゝ、そしてお前は何時帰るの。」
「二三日うちと思つてゐるんですが、どうも社の方の仕事が近頃忙しいもので……いや、帰る前の日には……」
「そして今日は何か用なの?」
彼は、黙つてゐた。傍に誰か居る気配がありはしまいか? 彼は、凝と疑り深くそんな聞き耳をたてたりした。――電話なんぞ掛けるんぢやなかつた、などと思つた。
「お蝶さんから何か便りがないですか。」
「ない。」と、母は明らかに不気嫌な気色を示した。――これからワザと母の前で、お蝶を案じるようなことばかり云つてやらう、そんなことを彼は思ひながら、
「いづれ帰つてから、いろいろ話しますが、あまり便りがないとすると、僕は今度そつちへ行つたついでに、静岡まで行つて見て来ようかと思つてるんですよ。」
「何を云つてゐるのさ、お前は! すつかりきまりがついて、あゝなつたんだからもう余外なことはしない方が好いんだよ。」
「さうですかなア!」と彼は、大袈裟に点頭く風を示して、そつと快い苦笑を感じた。暫く、この種の母の嫉妬を見なかつたので、何となく彼は懐しい思ひさへした。自分が悪徳を行つてゐるにも係はらず、未だに一寸でもお蝶の話に触れると露骨な自尊心を現はさずには居られない母を、こんな所で離れて感ずると彼は、皮肉にならずには居られなかつた。周子などを相手にして、切つ端詰つた思ひで苛々するのに比べると、母を相手にする方が心に奇妙におどけた余裕が出来て晴々しかつた。久し振に小田原へ行くことが、暖かい国へでも行かれるやうに楽しみだつた。
「だつてお蝶さんだツて、心細いでせうからね、見ず知らずの処へお光とたつた二人で行つてゐるんぢやア! せめて稀には僕でも行ツてやらなければ……」
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