いうような漢学の大儒《たいじゅ》がおられた。先生は教壇に上り、腰から煙草入を取り出し、徐《おもむろ》に一服ふかして、それから講義を始められることなどもあった。私共の三年の時に、ケーベル先生が来られた。先生はその頃もう四十を越えておられ、一見哲学者らしく、前任者とコントラストであった。最初にショーペンハウエルについて何か講義せられたように記憶している。この先生の講義はブッセ教授と異って机に坐ったままで低声で話された。ケーベルさんは始めて日本へ来て、日本の学生が古典語を知らないで哲学を学ぶということが、如何にも浅薄に感ぜられたらしい。私が或日先生を訪問してアウグスチヌスの近代語訳がないかとお聞きしたところ、先生はお前はなぜ古典語を学ばないかといわれた。私は日本人として古典語を学ぶのは中々困難であると申上げると、それでもお前と同クラスの岩元君はギリシャ語を読むではないかとのことであった。You must read Latin at least. *2といわれた。しかしまた先生は時に手ずから煙草をすすめられ、私は(当時)煙草を吸いませぬと申上げると、先生は Philosoph muss rau
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング