いた同窓生と、忽ちかけ離れた待遇の下に置かれるようになったので、少からず感傷的な私の心を傷つけられた。三年の間を、隅の方に小さくなって過した。しかしまた一方には何事にも促らわれず、自由に自分の好む勉強ができるので、内に自ら楽むものがあった。超然として自ら矜持《きんじ》する所のものを有《も》っていた。私の頃は高校ではドイツ語を少ししかやらなかったので、最初の一年は主として英語の注釈の附いたドイツ文学の書を読んだ。
 その頃の哲学科は、井上哲次郎先生も一両年前に帰られ、元良、中嶋両先生も漸く教授となられたので、日本人の教授が揃うたのだが、主としてルードヴィヒ・ブッセが哲学の講義をしていた。この人はその頃まだ三十そこらの年輩の人であった。ベルリンでロッチェの晩年の講義を聞いたとかいうので、全くロッチェ学派であった。哲学概論といっても、ロッチェ哲学の梗概に過ぎなかった。その頃ドイツ人でも英語で講義した。中々元気のよい講義をする人で、調子附いて来ると、いつの間にか、英語の発音がドイツ語的となって、ゲネラチョーン・アフタ・ゲネラチョーン*1などとなった。こういう外人の教師と共に、まだ島田重礼先生と
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