明治二十四、五年頃の東京文科大学選科
西田幾多郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)工廠《こうしょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)砲兵|工廠《こうしょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]《がけ》の

*:注釈記号
 (底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)アフタ・ゲネラチョーン*1などと
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 私共が故郷の金沢から始めて東京に出た頃は、水道橋から砲兵|工廠《こうしょう》辺はまだ淋しい所であった。焼鳥の屋台店などがあって、人力車夫が客待をしていた。春日町辺の本郷側の※[#「厂+圭」、第3水準1−14−82]《がけ》の下には水田があって蛙が鳴いていた。本郷でも、大学の前から駒込の方へ少し行けば、もう町はずれにて、砂煙の中に多くの肥車《こえぐるま》に逢うた。
 その頃には、今の大学の正門の所に粗末な木の門があった。竜岡町の方が正門であって、そこは正門ではなかったらしい。そこから入ると、すぐ今は震災で全く跡方もなくなった法文科大学の建物があった。それは青山御所を建てたコンドルという英人が建てたとか、あまり大きくもない煉瓦の建物であったが、当時の法文科はその一つの建物の中に納っていたのである。しかもその二階は図書室と学長室などがあって、太いズボンをつけた外山《とやま》さんが、鍵をがちゃつかしながら、よく学長室に出入せられるのを見た。法文の教室は下だけで、間に合うていたのである。当時の選科生というものは、誠にみじめなものであった。無論、学校の立場からして当然のことでもあったろうが、選科生というものは非常な差別待遇を受けていたものであった。今いった如く、二階が図書室になっていて、その中央の大きな室が閲覧室になっていた。しかし選科生はその閲覧室で読書することがならないで、廊下に並べてあった机で読書することになっていた。三年になると、本科生は書庫の中に入って書物を検索することができたが、選科生には無論そんなことは許されなかった。それから僻目《ひがめ》かも知れないが、先生を訪問しても、先生によっては閾《しきい》が高いように思われた。私は少し前まで、高校で一緒に
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