外界の変化においては知識的なる予期表象其者が変化の原因となるのではないというかも知れぬが、元来、因果とは意識現象の不変的連続である、仮に意識を離れて全然独立の外界なる者があるとするならば、意志においても意識的なる予期表象が直に外界における運動の原因とはいわれまい、単に両現象が平行するというまででなければならぬ。かく見れば意志的予期表象の運動に対する関係は知識的予期表象の外界に対する関係と同一になる。実際、意志的予期表象と身体の運動とは必ずしも相伴うのではない、やはり或約束の下に伴うのである。
 また我々は普通に意志は自由であるといっている。しかしいわゆる自由とは如何なることをいうのであろうか。元来我々の欲求は我々に与えられた者であって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、これが自由の真意義である。而してこの意味においての自由は単に意識の体系的発展と同意義であって、知識においても同一の場合には自由であるということができる。我々はいかなる事をも自由に欲することができるように思うが、そは単に可能であるという迄である、実際の欲求はその時に与えられるのである、或一の動機が発展する場合には次の欲求を予知することができるかも知れぬが、然らざれば次の瞬間に自己が何を欲求するかこれを予知することもできぬ。要するに我が欲求を生ずるというよりはむしろ現実の動機が即ち我である。普通には欲求の外に超然たる自己があって自由に動機を決定するようにいうのであるが、斯《かく》の如き神秘力のないのはいうまでもなく、若しかかる超然的自己の決定が存するならば、それは偶然の決定であって、自由の決定とは思われぬのである。
 上来論じ来《きた》ったように、意志と知識との間には絶対的区別のあるのではなく、そのいわゆる区別とは多く外より与えられた独断にすぎないのである。純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、共に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極致が真理であり兼ねてまた実行であるのである。かつていった知覚の連続のような場合では、未だ知と意と分れておらぬ、真に知即行である。ただ意識の発展につれて、一方より見れば種々なる体系の衝突の為、一方より見れば更に大なる統一に進む為、理想と事実との区別ができ、主観界と客観界とが分れてくる、そこで主より客に行くのが意で、客より主に来るのが知であるというような考も出てくる。知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる状態を失った場合に生ずるのである。意志における欲求も知識における思想も共に理想が事実と離れた不統一の状態である。思想というのも我々が客観的事実に対する一種の要求である、いわゆる真理とは事実に合うた実現し得べき思想ということであろう。この点より見れば事実に合うた実現し得べき欲求と同一といってよい、ただ前者は一般的で、後者は個人的なるの差があるのである。それで意志の実現とか真理の極致とかいうのはこの不統一の状態から純粋経験の統一の状態に達するの謂である。意志の実現をかく考えるのは明であるが、真理をもかく考えるには多少の説明を要するであろう。如何なる者が真理であるかというについては種々の議論もあるであろうが、余は最も具体的なる経験の事実に近づいた者が真理であると思う。往々真理は一般的であるという、もしその意味が単に抽象的共通ということであれば、かかる者はかえって真理と遠ざかったものである。真理の極致は種々の方面を綜合する最も具体的なる直接の事実その者でなければならぬ。この事実が凡ての真理の本であって、いわゆる真理とはこれより抽象せられ、構成せられた者である。真理は統一にあるというが、その統一とは抽象概念の統一をいうのではない、真の統一はこの直接の事実にあるのである。完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語にいい現わすべき者ではない、いわゆる科学的真理の如きは完全なる真理とはいえないのである。
 凡て真理の標準は外にあるのではなく、かえって我々の純粋経験の状態にあるのである、真理を知るというのはこの状態に一致するのである。数学などのような抽象的学問といわれている者でも、その基礎たる原理は我々の直覚即ち直接経験にあるのである。経験には種々の階級がある、かつていったように、関係の意識をも経験の中に入れて考えて見ると、数学的直覚の如き者も一種の経験である。かく種々の直接経験があるならば、何に由りてその真偽を定むるかの疑も起るであろうが、そは二つの経験が第三の経験の中に包容せられた時、この経験に由りてこれを決することができる。とにかく直接経験の状態において、主客相没し、天地唯一の現実、疑わんと欲して疑う能わざる処に真理の確信があるのである。一方において意志の活動ということを考えて見るとやはり此《かく》の如き直接経験の現前即ち意識統一の成立をいうにすぎぬ。一の欲求の現前は単に表象の現前と同じく直接経験の事実である。種々の欲求の争の後一つの決断ができたのは、種々思慮の後一の判断ができたように、一の内面約統一が成立したのである。意志が外界に実現されたという時は、学問上自己の考が実験に由りて証明せられた場合のように、主客の別を打破した最も統一せる直接経験の現前したのである。或は意識内の統一は自由であるが、外界との統一は自然に従わねばならぬというが、内界の統一であっても自由ではない、統一は凡て我々に与えられる者である、純粋経験より見れば内外などの区別も相対的である。意志の活動とは単に希望の状態ではない、希望は意識不統一の状態であって、かえって意志の実現が妨げられた場合である、ただ意識統一が意志活動の状態である。たとい現実が自己の真実の希望に反していても、現実に満足しこれに純一なる時は、現実が意志の実現である。これに反し、いかに完備した境遇であっても、他に種々の希望があって現実が不統一の状態であった時には、意志が妨げられているのである。意志の活動と否とは純一と不純一、即ち統一と不統一とに関するのである。
 例えばここに一本のペンがある。これを見た瞬間は、知ということもなく、意ということもなく、ただ一個の現実である。これについて種々の聯想が起り、意識の中心が推移し、前の意識が対象視せられた時、前意識は単に知識的となる。これに反し、このペンは文字を書くべきものだというような聯想が起る。この聯想がなお前意識の縁暈《えんうん》としてこれに附属している時は知識であるが、この聯想的意識|其者《そのもの》が独立に傾く時、即ち意識中心がこれに移ろうとした時は欲求の状態となる。而してこの聯想的意識がいよいよ独立の現実となった時が意志であり、兼ねてまた真にこれを知ったというのである。何でも現実における意識体系の発展する状態を意志の作用というのである。思惟の場合でも、或問題に注意を集中してこれが解決を求むる所は意志である。これに反し茶をのみ酒をのむというようなことでも、これだけの現実ならば意志であるが、その味をためすという意識が出て来てこれが中心となるならば知識となる、而してこのためすという意識其者がこの場合において意志である。意志というのは普通の知識という者よりも一層根本的なる意識体系であって統一の中心となる者である。知と意との区別は意識の内容にあるのではなく、その体系内の地位に由りて定まってくるのであると思う。
 理性と欲求とは一見相衝突するようであるが、その実は両者同一の性質を有し、ただ大小深浅の差あるのみであると思う。我々が理性の要求といっている者は更に大なる統一の要求である、即ち個人を超越せる一般的意識体系の要求であって、かえって大なる超個人的意志の発現とも見ることができる。意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、個人とは意識の中の一小体系にすぎない。我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、もし、更に大なる意識体系を中軸として考えて見れば、この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意志実現である。たとえば熱心なる宗教家、学者、美術家の如き者である。「かくなければならぬ」という理性の法則と、単に「余はかく欲する」という意志の傾向とは全く相異なって見えるが、深く考えて見るとその根柢を同じうする者であると思う。凡て理性とか法則とかいっている者の根本には意志の統一作用が働いている、シラーなどが論じているように、公理 axiom というような者でも元来実用上より発達した者であって、その発生の方法においては単なる我々の希望と異なっておらぬ(Sturt, Personal Idealism, p. 92)。翻《ひるがえ》って我々の意志の傾向を見るに、無法則のようではあるが、自ら必然の法則に支配せられているのである(個人的意識の統一である)。右の二者は共に意識体系の発展の法則であって、ただその効力の範囲を異にするのみである。また或は意志は盲目であるというので理性と区別する人もあるが、何ごとにせよ我々に直接の事実であるものは説明できぬ、理性であってもその根本である直覚的原理の説明はできぬ。説明とは一の体系の中に他を包容し得るの謂である。統一の中軸となる者は説明はできぬ、とにかくその場合は盲目である。
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   第四章 知 的 直 観

 余がここに知的直観 intellektuelle Anschauung というのはいわゆる理想的なる、普通に経験以上といっている者の直覚である。弁証的に知るべき者を直覚するのである、たとえば美術家や宗教家の直覚の如き者をいうのである。直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においては遙にこれより豊富深遠なるものである。
 知的直観ということは或人には一種特別の神秘的能力のように思われ、また或人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかし余はこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる。普通の知覚であっても、前にいったように、決して単純ではない、必ず構成的である、理想的要素を含んでいる。余が現在に見ている物は現在の儘《まま》を見ているのではない、過去の経験の力に由りて説明的に見ているのである。この理想的要素は単に外より加えられた聯想というようなものではなく、知覚|其者《そのもの》を構成する要素となっている、知覚其者がこれに由りて変化せられるのである。この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる。各人の天賦により、また同一の人でもその経験の進歩に由りて異なってくるのである。始は経験のできなかった事または弁証的に漸くに知り得た事も、経験の進むに従い直覚的事実として現われてくる、この範囲は自己の現在の経験を標準として限定することはできぬ、自分ができぬから人もできぬということはない。モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、たとえば我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができる宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。或人の超凡的直覚が単に空想であるか、将《は》た真に実在の直覚であるかは他との関係即ちその効果|如何《いかん》に由って定まってくる。直接経験より見れば、空想も真の直覚も同一の性質をもっている、ただその統一の範囲において大小の別あるのみである。
 或人は知的直観がその時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直視する点において普通の知覚とその類を異にすると考えている。しかし前にもいったように、厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越せる直覚に由りて成立するもので
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