精神と密接しているのである。我々はこの意識統一の根柢において直に神の面影に接することができる。故にベーメも「天は到る処にあり、汝の立つ処行く処皆天あり」といいまた「最深なる内生に由って神に到る」といっている(Morgenrote[#8文字目の「o」はウムラウト(¨)付き])。
 或人はいうであろう、右の如く論じた時には、神は物の本質と同一となり、よし精神的なりとするも理性または良心と何らの区別なく、その生きた個人的人格を失うようになるではなかろうか。個人性はただ不定的自由意志より生ずることができるのである(これかつて中世哲学においてスコトゥスがトーマスに反対せる論点であった)。かかる神に対して我々は決して宗教的感情を起すことはできぬ。宗教においては罪は単に法を破るのではない、人格に背くのである、後悔は単に道徳的後悔ではない、親を害し恩人に背いた切なる後悔である。アルスキン Erskine of Linlathen は「宗教と道徳とは良心の背後に人格を認むると否とに由って分れる」といっている。しかしヘーゲルなどのいったように、真の個人性というのは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたもの、bestimmte Allgemeinheit が個人性となるのである。一般的なる者は具体的なる者の精神である。個人性とは一般性に外より他の或者を加えたのではない、一般性の発展したものが個人性となるのである。何らの内面的統一もない単に種々の性質の偶然的結合というような者には個人性というべきものはない。個人的人格の要素たる意志の自由ということは一般的なる者が己《おのれ》自身を限定する self−determination の謂《いい》である。三角形の概念が種々の三角形に分化し得るように、或一般的なる者がその中に含める種々なる限定の可能を自覚するのが自由の感である。全く基礎のない絶対的自由意志よりはかえって個人的自覚は起らぬであろう。個性に理由なし ratio singularitatis frustra quaeritur という語もあれど、真にかくの如き個人性は何らの内容なき無と同一でなければならぬ。ただ具体的なる個人性は抽象的概念にて知ることができぬまでである。抽象的概念に現わすことのできない個人性でも画家や小説家の筆にて鮮かに現わすことができるのである。
 神が宇宙の統一であるというのは単に抽象的概念の統一ではない、神は我々の個人的自己のように具体的統一である、即ち一の生きた精神である。我々の精神が上にいった意味で個人的であるといい得るように、神も個人的といい得るであろう。理性や良心は神の統一作用の一部であろうが、その生きた精神その者ではない。かくの如き神性的精神の存在ということは単に哲学上の議論ではなくして、実地における心霊的経験の事実である。我々の意識の底には誰にもかかる精神が働いているのである(理性や良心はその声である)。ただ我々の小なる自己に妨げられてこれを知ることができないのである。たとえば詩人テニスンの如きも次の如き経験をもっておった。氏が静に自分の名を唱えていると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる、而も意識は決して朦朧《もうろう》たるのではなく最も明晰確実である。この時死とは笑うべき不可能事で、個人の死という事が真の生であると感ぜられるといっている。氏は幼時より淋しき独居の際においてしばしばかかる事を経験したという。また文学者シモンズ J. A. Symonds の如きも、我々の通常の意識が漸々薄らぐと共にその根柢にある本来の意識が強くなり、遂には一の純粋なる絶対的抽象的自己だけが残るといっている。その外、宗教的神秘家のかかる経験を挙げれば限もないのである(James, The Varieties of Religious Experience, Lect. XVI, XVII)。或はかかる現象を以て尽《ことごと》く病的となすかも知らぬがその果して病的なるか否かは合理的なるか否かに由って定まってくる。余がかつて述べたように、実在は精神的であって我々の精神はその一小部分にすぎないとすれば、我々が自己の小意識を破って一大精神を感得するのは毫《ごう》も怪むべき理由がない。我々の小意識の範囲を固執するのがかえって迷であるかも知れぬ。偉人には必ず右のように常人より一層深遠なる心霊的経験がなければならぬと思う。
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   第四章 神 と 世 界

 純粋経験の事実が唯一の実在であって神はその統一であるとすれば、神の性質および世界との関係もすべて我々の純粋経験の統一即ち意識統一の性質およびこれとその内容との関係より知ることができる。先ず我々の意識統一は見ることもできず、聞くこともできぬ、全く知識の対象となることはできぬ。一切はこれに由りて成立するが故に能く一切を超絶している。黒にあうて黒を現ずるも心は黒なるのではない、白にあうて白を現んずるも心は白なるのではない。仏教はいうに及ばず、中世哲学においてディオニシュース Dionysius 一派のいわゆる消極的神学が神を論ずるに否定を以てしたのもこの面影を写したのである。ニコラウス・クザヌスの如きは神は有無をも超越し、神は有にしてまた無なりといっている。我々が深く自己の意識の奥底を反省してみる時はかつてヤコブ・ベーメが、神は「物なき静さ」であるとか、「無底」 Ungrund であるとかまたは「対象なき意志」 Wille ohne Gegenstand であるとかいった語に深き意味を見出すこともでき、また一種崇高にして不可思議の感に打たれるのである。その他神の永久とか遍在とか全知全能とかいうようのことも、皆この意識統一の性質より解釈せねばならぬ。時間、空間は意識統一に由って成立するが故に、神は時間、空間の上に超絶し永久不滅にして在らざる所なしである。一切は意識統一に由りて生ずるが故に、神は全知全能であって知らぬ所もなく能《あた》わぬ所もない、神においては知と能と同一である。
 然らば右の如き絶対無限なる神とこの世界との関係は如何なるものであろうか。有を離れたる無は真の無でない、一切を離れたる一は真の一でない、差別を離れたる平等は真の平等でない。神がなければ世界はないように、世界がなければ神もない。固《もと》よりここに世界というのは我々のこの世界のみをさすのではない。スピノーザのいったように神の属性 attributes は無限であるから、神は無限の世界を包含しておらねばならぬ。ただ世界的表現は神の本質に属すべきものであって決してその偶然的作用ではない、神はかつて一度世界を創造したのではなく、その永久の創造者である(ヘーゲル)。要するに神と世界との関係は意識統一とその内容との関係である。意識内容は統一に由って成立するが、また意識内容を離れて統一なる者はない。意識内容とその統一とは統一せられる者とする者との二あるのではなく、同一実在の両方面にすぎないのである。すべて意識現象はその直接経験の状態においてはただ一つの活動であるが、これを知識の対象として反省することに由ってその内容が種々に分析せられ差別せられるのである。もしその発展の過程よりいえば、先ず全体が一活動として衝動的に現われたものが矛盾衝突に由ってその内容が反省せられ分別せられたのである。余はここにおいてもベーメの語を想い起さずにはいられない。氏は対象なき意志ともいうべき発現以前の神が己《おのれ》自身を省みること即ち己自身を鏡となすことに由って主観と客観とが分れ、これより神および世界が発展するといっている。
 元来、実在の分化とその統一とは一あって二あるべきものではない。一方において統一ということは、一方において分化ということを意味している。たとえば樹において花はよく花たり葉はよく葉たるのが樹の本質を現わすのである。右の如き区別は単に我々の思想上のことであって直接的なる事実上の事ではないのである。ゲーテが「自然は核も殻も持たぬ、すべてが同時に核であり殻である」 Natur hat weder Kern noch Schale, alles ist sie mit einem Male. といったように、具体的真実在即ち直接経験の事実においては分化と統一とは唯一の活動である。たとえば一幅の画、一曲の譜において、その一筆一声いずれも直《ただち》に全体の精神を現わさざるものはなく、また画家や音楽家において一つの感興である者が直に溢れて千変万化の山水となり、紆余《うよ》曲折の楽音ともなるのである。斯《かく》の如き状態においては神は即ち世界、世界は即ち神である。ゲーテが「エペソ人のディヤナは大なるかな」といえる詩の中にいったように、人間の脳中における抽象的の神に騒ぐよりは、専心ディヤナの銀龕《ぎんがん》を作りつつパウロの教を顧みなかったという銀工の方が、或意味においてかえって真の神に接していたともいえる。エッカルトのいったように神すらも失った所に真の神を見るのである。右の如き状態においては天地ただ一指、万物我と一体であるが、曩《さき》にもいったように、一方より見れば実在体系の衝突により、一方より見ればその発展の必然的過程として実在体系の分裂を来すようになる、即ちいわゆる反省なる者が起って来なければならぬ。これに由って現実であった者が観念的となり、具体的であった者が抽象的となり、一であった者が多となる。ここにおいて一方に神あれば一方に世界あり、一方に我あれば一方に物あり、彼此《ひし》相対し物々相背くようになる。我らの祖先が知慧の樹の果を食うて神の楽園より追い出だされたというのも、この真理を意味するのであろう。人祖堕落はアダム、エヴの昔ばかりではなく、我らの心の中に時々刻々行われているのである。しかし翻《ひるがえ》って考えて見れば、分裂といい反省といい別にかかる作用があるのではない、皆これ統一の半面たる分化作用の発展にすぎないのである。分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる、反省は深き統一に達する途である(「善人なほ往生す、いかにいはんや悪人をや」という語がある)。神はその最深なる統一を現わすには先ず大に分裂せねばならぬ。人間は一方より見れば直に神の自覚である。基督教《キリストきょう》の伝説をかりていえば、アダムの堕落があってこそ基督の救があり、従って無限なる神の愛が明《あきらか》となったのである。
 さて、世界と神との関係を右のように考えることより、我々の個人性は如何に説明せねばならぬであろうか。万物は神の表現であって神のみ真実在であるとすれば、我々の個人性という如き者は虚偽の仮相であって、泡沫《ほうまつ》の如く全く無意義の者と考えねばならぬであろうか。余は必ずしもかく考うるには及ばぬと思う。固より神より離れて独立せる個人性という者はなかろう。しかしこれが為に我々の個人性は全然虚幻とみるべきものではない、かえって神の発展の一部とみることもできる、即ちその分化作用の一とみることもできる。凡《すべ》ての人が各自神より与えられた使命をもって生れてきたというように、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成するのである。この意味において我々の個人性は永久の生命を有し、永遠の発展を成すということができるのである(ロイスの霊魂不滅論を看よ)。神と我々の個人的意識との関係は意識の全体とその部分との関係である。凡て精神現象においては各部分は全体の統一の下に立つと共に、各自が独立の意識でなければならぬ(精神現象においては各部分が end in itself である)。万物は唯一なる神の表現であるということは、必ずしも各人の自覚的独立を否定するに及ばぬ。たとえば我々の時々刻々の意識は個人的統一の下にあると共に、各自が独立の意識と見ることもできると一般である。イリングウォルスは「一の人格は必ず他の人格を求める、他の人格において自己が全人格の満足を得るのであ
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