動の観念を伴うて動作に発するのであるが、欲求が二つ以上あった時にはいわゆる欲求の競争なる者が起って、そのうち最も有力なる者が意識の主位を占め、動作に発するようになる。これを決意という。我々の意志というのはかかる意識現象の全体をさすのであるが、時には狭義においてはいよいよ動作に移る瞬間の作用或は特に決意の如き者をいうこともある。行為の要部は実にこの内面的意識現象たる意志にあるので、外面の動作はその要部ではない。何らかの障碍の為め動作が起らなかったとしても、立派に意志があったのであればこれを行為ということができ、これに反し、動作が起っても充分に意志がなかったならばこれを行為ということはできぬ。意識の内面的活動が盛になると、始より意識内の出来魔?レ的とする意志が起ってくる。かかる場合においても勿論行為と名づけることができる。心理学者は内外というように区別をするが意識現象としては全然同一の性質を具えているのである。
 右に述べたところは単に行為の要部たる意志の過程を記載したのにすぎないから、今一歩を進んで、意志は如何なる性質の意識現象で、意識の中において如何なる地位を占める者であるかを説明して見よう。心理学から見れば、意志は観念統一の作用である。即ち統覚の一種に属すべき者である。意識における観念結合の作用には二種あって、一つは観念結合の原因が主として外界の事情に存し、意識においては結合の方向が明《あきらか》でなく、受動的と感ぜらるるので、これを聯想といい、一つは結合の原因が意識内にあり、結合の方向が明に意識せられており、意識が能動的に結合すると感ぜらるるので、これを統覚という。然るに右にいったように、意志とは先ず観念結合の方向を定むる目的観念なる者があって、これより従来の経験にて得たる種々の運動観念の中について自己の実現に適当なる観念の結合を構成するので、全く一の統覚作用である。斯く意志が観念統一の作用であるということは、欲求の競争の場合において益々明となる。いわゆる決意とはこの統一の終結にすぎないのである。
 然らばこの意志の統覚作用と他の統覚作用とは如何なる関係において立ちおるのであるか。意志の外に思惟、想像の作用も同じく統覚作用に属している。これらの作用においても或統一的観念が本となって、これよりその目的に合うように観念を統一するので、観念活動の形式においては全く意志と同一である。ただその統一の目的が同じくなく、従って統一の法則が異なっているから、各《おのおの》相異なった意識の作用と考えられているのである。しかし今一層精細に何点において異なり何点において同じきかを考究して見よう。先ず想像と意志とを比較して見ると、想像の目的は自然の模擬であって、意志の目的は自身の運動である。従って想像においては自然の真状態に合うように観念を統一し、意志では自己の欲望に合うように統一するのである。しかし精しく考えて見ると、意志の運動の前には必ず先ず一度その運動を想像せねばならず、また自然を想像するには自分が先ずその物になって考えて見なければならぬ。ただ想像というものはどうしても外物を想像するので、自己が全くこれと一致することができず、従って自己の現実でないというような感がする。即ち或事を想像するというのとこれを実行するというのとはどうしても異なるように思われるのである。しかし更に一歩を進めて考えて見ると、こは程度の差であって性質の差ではない。想像も美術家の想像において見るが如く入神の域に達すれば、全く自己をその中に没し自己と物と全然一致して、物の活動が直《ただち》に自己の意志活動と感ぜらるるようにもなるのである。次に思惟と意志とを比較して見ると、思惟の目的は真理にあるので、その観念結合を支配する法則は論理の法則である。我々は真理とする所の者を必ず意志するとは限らない、また意志する所の者が必ず真理であるとは考えておらぬ。しかのみならず、思惟の統一は単に抽象的概念の統一であるが、意志と想像とは具体的観念の統一である。これらの点において思惟と意志とは一見明に区別があって、誰もこれを混ずる者はないのであるがまた能く考えて見ると、この区別も左程に明確にして動かすべからざるものではない。意志の背後にはいつでも相当の理由が潜んでいる。その理由は完全ならざるにせよ、とにかく意志は或真理の上に働くものである、即ち思惟に由って成立するのである。これに反し、王陽明が知行同一を主張したように真実の知識は必ず意志の実行を伴わなければならぬ。自分はかく思惟す驍ェ、かくは欲せぬというのは未だ真に知らないのである。斯《か》く考えて見ると、思惟、想像、意志の三つの統覚はその根本においては同一の統一作用である。そのうち思惟および想像は物および自己の凡てに関する観念に対する統一作用であるが、意志は特に自己の活動のみに関する観念の統一作用である。これに反し、前者は単に理想的、即ち可能的統一であるが、後者は現実的統一である、即ち統一の極致であるということができる。
 已《すで》に意志の統覚作用における地位を略述した所で、今度は他の観念的結合、即ち聯想および融合との関係を述べよう。聯想については曩《さき》に、その観念結合の方向を定むる者は外界にありて内界にないといったが、これは単に程度の上より論じたので、聯想においてもその統一作用が全く内にないとはいわれない。ただ明に意識上に現われぬまでである。融合に至っては観念の結合が更に無意識であって、結合作用すら意識しないのであるが、それとて決して内面的統一がないのではない。これを要するに意識現象は凡て意志と同一の形式を具えていて、凡て或意味における意志であるということができる、而してこれらの統一作用の根本となる統一力を自己と名づくるならば、意志はその中にて最も明に自己を発表したものである。それで我々は意志活動において最も明に自己を意識するのである。
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   第二章 行  為 下

 これまでは心理学上より、行為とは如何なる意識現象であるかを論じたのであるが、これより行為の本たる意志の統一力なるものが何処より起るか、実在の上においてこの力は如何なる意義をもっているかの問題を論じ、哲学上意志および行為の性質を明《あきらか》にして置こうと思う。
 或定まれる目的に由りて内より観念を統一するという意志の統一とは果して何より起るのであるか。物質の外に実在なしという科学者の見地より見れば、この力は我々の身体より起るというの外なかろう。我々の身体は動物のそれと同じく、一の体系をなせる有機体である。動物の有機体は精神の有無に関せず、神経系統の中枢において機械的に種々の秩序立ちたる運動をなすことができる。即ち反射運動、自動運動、更に複雑なる本能的動作をなすことができるのである。我々の意志も元はこれらの無意識運動より発達し来《きた》ったもので、今でも意志が訓練せられた時にはまたこれらの無意識運動の状態に還るのであるから、つまり同一の力に基づいて起る同一種の運動であると考えるの外はない。而《しか》して有機体の種々の目的は凡《すべ》て自己および自己の種属における生活の維持発展ということに帰するのであるから、我々の意志の目的も生活保存の外になかろう。ただ意志においては目的が意識せられているので、他と異なって見えるのみである。それで科学者は我々人間における種々高尚なる精神上の要求をも皆この生活の目的より説明しようとするのである。
 しかし斯《か》く意志の本を物質力に求め、微妙幽遠なる人生の要求を単に生活欲より説明しようとするのは頗《すこぶ》る難事である。たとい高尚なる意志の発達は同時に生活作用の隆盛を伴うものとしても、最上の目的は前者にありて後者にあるのではあるまい。後者はかえって前者の手段と考えねばならぬのであろう。しかし姑《しばら》くこれらの議論は後にして、もし科学者のいうように我々の意志は有機体の物質的作用より起る者とするならば、物質は如何なる能力を有するものと仮定せねばならぬであろうか。有機体の合目的運動が物質より起るというには二つの考え方がある。一つは自然を合目的なる者と見て、生物の種子においての如く、物質の中にも合目的力を潜勢的に含んでおらねばならぬとするので、一つは物質は単に機械力をのみ具するものと見て、合目的なる自然現象は凡《すべ》て偶然に起るものとするのである。厳密なる科学者の見解はむしろ後者にあるのであるが、余はこの二つの見解が同一の考え方であって、決してその根柢までを異にせるものではないと思う。後者の見解にしてもどこかに或一定不変の現象を起す力があると仮定せねばならぬ。機械的運動を生ずるにはこれを生ずる力が物体の中に潜在すると仮定せねばならぬ。かくいいうるならば、何故に同じ理由に由りて有機体の合目的力を物体の中に潜在すると考えることができぬか。或は有機体の合目的運動の如きは、かかる力を仮定せずとも、更に簡単なる物理化学の法則に由りて説明することが出来るという者もあろう。しかしかくいえば、今日の物理化学の法則もなお一層簡単なる法則に由りて説明ができるかも知れぬ。否知識の進歩は無限であるから必ず説明されねばならぬと思う。かく考うれば真理は単に相対的である。余はむしろこの考を反対となし、分析よりも綜合に重きを置いて、合目的なる自然が個々の分立より綜合にすすみ、階段を踏んで己《おのれ》が真意を発揮すると見るのが至当であると思う。
 更に余が曩《さき》に述べた実在の見方に由れば、物体というのは意識現象の不変的関係に名づけた名目にすぎないので、物体が意識を生ずるのではなく、意識が物体を作るのである。最も客観的なる機械的運動という如き者も我々の論理的統一に由りて成立するので、決して意識の統一を離れたものではない。これより進んで生物の生活現象となり、更に進んで動物の意識現象となるに従って、その統一はいよいよ活溌となり多方面となり且つ深遠となるのである。意志は我々の意識の最も深き統一力であって、また実在統一力の最も深遠なる発現である。外面より見て単に機械的運動であり生活現象の過程であるものが、その内面の真意義においては意志であるのである。恰《あたか》も単に木であり石であると思っていたものが、その真意義においては慈悲円満なる仏像であり、勇気満々たる仁王であるが如く、いわゆる自然は意志の発現であって、我々は自己の意志を通して幽玄なる自然の真意義を捕捉することができるのである。固《もと》より現象を内外に分ち精神現象と物体現象とが全く異なれる現象と見做《みな》す時は、右の如き説は空想に止まるように思われるかも知れぬが、直接経験における具体的事実には内外の別なく、斯《かく》の如き考がかえって直接の事実であるのである。
 右に述べし所は物体の機械的運動、有機体の合目的をもって意志と根本を一つにし作用を同じうすると見る科学者のいう所と一致するのであるが、しかしその根本とする所の者は全く正反対である。彼は物質力を以て本となし、これは意志を以て本とするのである。
 この考に由れば、前に行為を分析して意志と動作の二としたのであるが、この二者の関係は原因と結果との関係ではなく、むしろ同一物の両面である。動作は意志の表現である。外より動作と見らるる者が内より見て意志であるのである。
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   第三章 意 志 の 自 由

 意志は心理的にいえば意識の一現象たるに過ぎないが、その本体においては実在の根本であることを論じた。今この意志が如何なる意味において自由の活動であるかを論じて見よう。意志が自由であるか、はたまた必然であるかは久しき以来学者の頭を悩ました問題である。この議論は道徳上大切であるのみならず、これに由りて意志の哲学的性質をも明《あきらか》にすることができるのである。
 先ず我々が普通に信ずる所に由って見れば、誰も自分の意志が自由であると考えぬ者はない。自分が自分の意識について経験する所では、或範囲において或事を為すこともできればまた為さぬこ
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