するという場合には、明《あきらか》に同一の意識が連続的に働くと見ることができる、ただ時間の長短において異なるばかりである。
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意識の結合には知覚の如き同時の結合、聯想思惟の如き継続的結合、および自覚の如き一生に亙れる結合も皆程度の差異であって、同一の性質より成り立つ者である。
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意識現象は時々刻々に移りゆくもので、同一の意識が再び起ることはない。昨日の意識と今日の意識とは、よしその内容において同一なるにせよ、全然異なった意識であるという考は、直接経験の立脚地より見たのではなくて、かえって時間という者を仮定し、意識現象はその上に顕われる者として推論した結果である。意識現象が時間という形式に由って成立する者とすれば、時間の性質上一たび過ぎ去った意識現象は再び還ることはできぬ。時間はただ一つの方向を有するのみである。たとい全く同一の内容を有する意識であっても、時間の形式上|已《すで》に同一とはいわれないこととなる。しかし今直接経験の本に立ち還って見ると、これらの関係は全く反対とならねばならぬ。時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎ
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