素となって、新なる意味を得た時には、已に過去の意識と同一といわれぬ(Stout, Analytic Psychology, Vol. II, p. 45)。これと同じく、現在の意識を分析した時にも、その分析せられた者はもはや現在の意識と同一ではない。純粋経験の上から見れば凡てが種別的であって、その場合ごとに、単純で、独創的であるのである。次にかかる純粋経験の綜合は何処まで及ぶか。純粋経験の現在は、現在について考うる時、已に現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ(James, The Principles of Psychology, Vol. I. Chap. XV)。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。しかし余はこの範囲は必ずしも一注意の下にかぎらぬと思う。我々は少しの思想も交えず、主客未分の状態に注意を転じて行くことができるのである。たとえば一生懸命に断岸を攀《よ》ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続 perceptu
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