知覚、衝動等においては一見|直《ただち》にその全体を実現して、右の過程を踏まないようにも見える。しかし前にいったように、意識はいかなる場合でも決して単純で受動的ではない、能動的で複合せるものである。而《しか》してその成立は必ず右の形式に由るのである。主意説のいうように、意志が凡ての意識の原形であるから、凡ての意識はいかに簡単であっても、意志と同一の形式に由って成立するものといわねばならぬ。
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 衝動および知覚などと意志および思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者においては無意識である過程が後者においては意識に自らを現わし来るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。我々の知覚というのもその発達から考えて見ると、種々なる経験の結果として生じたのである。例えば音楽などを聴いても、始の中は何の感をも与えないのが、段々耳に馴れてくればその中に明瞭なる知覚をうるようになるのである。知覚は一種の思惟といっても差支ない。
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 次に受動的意識と能動的意識との区別より起る誤解についても一言して置か
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