る者があって喜怒愛欲の情意を起すと思うが故に、情意が純個人的であるという考も起る。しかし人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接経験の事実である。
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 万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである。実在の完全なる説明においては知識的要求を満足すると共に情意の要求を度外に置いてはならぬ。
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 希臘《ギリシャ》人民には自然は皆生きた自然であった。雷電はオリムプス山上におけるツォイス神の怒であり、杜鵑《ほととぎす》の声はフィロメーレが千古の怨恨であった(Schiller, Die Gotter Griechenlands[#「Gotter」の「o」はウムラウト(¨)付き] を看《み》よ)。自然なる希臘人の眼には現在の真意がその儘《まま》に現じたのである。今日の美術、宗教、哲学、みなこの真意を現わさん
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