をいうのである。或は単に一表象に注意するのとこれを意志の目的として見るのと違うように思うでもあろうが、そはその表象の属する体系の差異である。凡て意識は体系的であって、表象も決して孤独では起らない、必ず何かの体系に属している。同一の表象であっても、その属する体系に由りて知識的対象ともなりまた意志の目的ともなるのである。たとえば、一杯の水を想起するにしても、単に外界の事情と聯想する時は知識的対象であるが、自己の運動と聯想せられた時は意志の目的となるのである。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」といったように、いかなる者も自己運動の表象の系統に入り来らざる者は意志の目的とはならぬのである。我々の欲求は凡て過去の経験の想起に因りて成立することは明なる事実である。その特徴たる強き感情と緊張の感覚とは、前者は運動表象の体系が我々に取りて最も強き生活本能に基づくのと、後者は運動に伴う筋覚に外ならぬのである。また単に運動を想起するのみではまだ直《ただち》にこれを意志するとまでいうことはできぬようであるが、そは未だ運動表象が全意識を占領せぬ故である、真にこれに純一となれば直に意志の決行となるのである。
 
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