る、即ちなお精細に限定せらるべき潜勢力を有っているのである。たとえば我々の感覚の如き者でもなお分化発展の余地があるのであろう、この点より見てなお一般的となすこともできる。これに反し一般的の者でも、発展をその処にかぎって見れば、個体的ということもできるであろう。普通には空間時間の上において限定せられた者をのみ個体的と称えている、しかしかかる限定は単に外面的である、真の個体とはその内容において個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である。この意味より見れば、普通に感覚或は知覚といっているような者は極めて内容に乏しき一般的なるもので、深き意味に充ちたる画家の直覚の如き者がかえって真に個体的といいうるであろう。凡て空間時間の上より限定せられた単に物質的なる者を以て、個体的となすのはその根柢において唯物論的独断があるであろうと思う。純粋経験の立脚地より見れば、経験を比較するにはその内容を以てすべきものである。時間空間という如き者もかかる内容に基づいてこれを統一する一つの形式にすぎないのである。或はまた感覚的印象の強く明なることと
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