ことはできぬ。論者のいうように、我々の行為を指導する道徳法なる者が、形式的理解力によりて先天的に知りうる者であろうか。純粋なる形式的理解力は論理学のいわゆる思想の三法則という如き、単に形式的理解の法則を与うることはできるが、何らの内容を与うることはできぬ。論者は好んで例を幾何学に取るが、幾何学においても、その公理なる者は単に形式的理解力に由りて、明になったのではなく、空間の性質より来るのである。幾何学の演繹的推理は空間の性質についての根本的直覚に、論理法を応用したものである。倫理学においても、已《すで》に根本原理が明となった上はこれを応用するには、論理の法則に由らねばならぬのであろうが、この原則その者は論理の法則に由って明になったのではない。たとえば汝の隣人を愛せよという道徳法は単に理解力に由りて明であるであろうか。我々に他愛の性質もあれば、また自愛の性質もある。然るに何故にその一が優っていて他が劣っているのであろうか、これを定むる者は理解力ではなくして、我々の感情または欲求である。我々は単に知識上に物の真相を知り得たりとしても、これより何が善であるかを知ることはできぬ。かくあるという
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