或学者の中には存在の法則よりして価値の法則を導き出そうとする人もある。しかし我々は単にこれよりこれが生ずるということから、物の価値的判断を導き出すことは出来ぬと思う。赤き花はかかる結果を生じ、または青き花はかかる結果を生ずという原因結果の法則からして、何故にこの花は美にしてかの花は醜であるか、何故に一は大なる価値を有し、一はこれを有せぬかを説明することはできぬ。これらの価値的判断には、これが標準となるべき別の原理がなければならぬ。我々の思惟、想像、意志という如き者も、已《すで》に事実として起った上は、いかに誤った思惟でも、悪しき意志でも、また拙劣なる想像でも、尽《ことごと》くそれぞれ相当の原因に因って起るのである。人を殺すという意志も、人を助くるの意志も皆或必然の原因ありて起り、また必然の結果を生ずるのである。この点においては両者少しも優劣がない。ただここに良心の要求とか、または生活の欲望という如き標準があって、始めてこの両行為の間に大なる優劣の差異を生ずるのである。或論者は大なる快楽を与うる者が大なる価値を有するものであるというように説明して、これに由りて原因結果の法則より価値の
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