志に伴う動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は内面における意識の統覚作用である。而してこの統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるのではない、この統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれが為である(Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung, §54)。純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかも知れぬが、種々の意味とか判断とかいうものは経験|其者《そのもの》の差別より起るので、後者は前者によりて与えられるのではない、経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたまでである。また今余が視覚として現われたる一経験を指して机となし、こ黷ノついて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験
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