象に関係あるが故に主観的であるというならば、純機械的自然も主観的である、空間、時間、運動という如きも我々の意識現象を離れては考えることはできない。ただ比較的に客観的であるので絶対的に客観的であるのではない。
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 真に具体的実在としての自然は、全く統一作用なくして成立するものではない。自然もやはり一種の自己を具えているのである。一本の植物、一匹の動物もその発現する種々の形態変化および運動は、単に無意義なる物質の結合および機械的運動ではなく、一々その全体と離すべからざる関係をもっているので、つまり一の統一的自己の発現と看做《みな》すべきものである。たとえば動物の手足鼻口等凡て一々動物生存の目的と密接なる関係があって、これを離れてその意義を解することはできぬ。少くとも動植物の現象を説明するには、かくの如き自然の統一力を仮定せねばならぬ。生物学者は凡て生活本能を以て生物の現象を説明するのである。啻《ただ》に生物にのみ此の如き統一作用があるのではなく、無機物の結晶においても已《すで》に多少この作用が現われている。即ち凡ての鉱物は皆特有の結晶形を具えているのである。自然の自
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