万物一体である。印度《インド》の古賢はこれを「それは汝である」 Tat twam asi といい、パウロは「もはや余生けるにあらず基督《キリスト》余に在《あ》りて生けるなり」といい(加拉太《ガラテア》書第二章二〇)、孔子は「心の欲する所に従うて矩《のり》を踰《こ》えず」といわれたのである。
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   第十二章 善行為の目的(善の内容)

 人格その者を目的とする善行為を説明するについて、先ず善行為とは如何なる動機より発する行為でなければならぬかを示したが、これより如何なる目的をもった行為であるかを論じて見よう。善行為というのも単に意識内面の事にあらず、この事実界に或客観的結果を生ずるのを目的とする動作であるから、我々は今この目的の具体的内容を明《あきらか》にせねばならぬ。前に論じたのはいわば善の形式で、今論ぜんとするのは善の内容である。
 意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、先ず我々の個人において実現せられる。我々の意識の根柢には分析のできない個人性というものがある。意識活動は凡《すべ》て皆個人性の発動である。各人の知識、感情、意志は尽《ことごと》くその人に特有なる性質を具えている。意識現象ばかりでなく、各人の容貌、言語、挙動の上にもこの個人性が現われている。肖像画の現わそうとするのは実にこの個人性である。この個人性は、人がこの世に生れると共に活動を始め死に至るまで種々の経験と境遇とに従うて種々の発展をなすのである。科学者はこれを脳の素質に帰するであろうが、余は屡々《しばしば》いったように実在の無限なる統一力の発現であると考える。それで我々は先ずこの個人性の実現ということを目的とせねばならぬ。即ちこれが最も直接なる善である。健康とか知識とかいうものは固《もと》より尚《とうと》ぶべき者である。しかし健康、知識|其者《そのもの》が善ではない。我々は単にこれにて満足はできぬ。個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。個人性の発揮ということはその人の天賦境遇の如何《いかん》に関せず誰にでもできることである。いかなる人間でも皆|各《おのおの》その顔の異なるように、他人の模倣のできない一あって二なき特色をもっているのである。而《しか》してこの実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。従来世人はあまり個人的善ということに重きを置いておらぬ。しかし余は個人の善ということは最も大切なるもので、凡て他の善の基礎となるであろうと思う。真に偉人とはその事業の偉大なるが為に偉大なるのではなく、強大なる個人性を発揮した為である。高い処に登って呼べばその声は遠い処に達するであろうが、そは声が大きいのではない、立つ処が高いからである。余は自己の本分を忘れ徒《いたず》らに他の為に奔走した人よりも、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。
 しかし余がここに個人的善というのは私利私欲ということとは異なっている。個人主義と利己主義とは厳しく区別しおかねばならぬ。利己主義とは自己の快楽を目的とした、つまり我儘《わがまま》ということである。個人主義はこれと正反対である。各人が自己の物質欲を恣《ほしいまま》にするという事はかえって個人性を没することになる。豕《ぶた》が幾匹いてもその間に個人性はない。また人は個人主義と共同主義と相反対するようにいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中にいる個人が各充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ。
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 個人的善に最も必要なる徳は強盛なる意志である。イブセンのブラントの如き者が個人的道徳の理想である。これに反し意志の薄弱と虚栄心とは最も嫌うべき悪である(共に自重の念を失うより起るのである)。また個人に対し最大なる罪を犯したる者は失望の極自殺する者である。
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 右にいったように真正の個人主義は決して非難すべき者でない、また社会と衝突すべき者でもない。しかしいわゆる各人の個人性という者は各独立で互に無関係なる実在であろうか。或はまた我々個人の本には社会的自己なる者があって、我々の個人はその発現であろうか。もし前者ならば個人的善が我々の最上の善でなければならぬ。もし後者ならば我々には一層大なる社会の善があるといわねばならぬ。余はアリストテレースがその政治学の始に、人は社会的動物であるといったのは動かすべからざる真理であると思う。今日の生理学上から考えて見ると我々の肉体が已《すで》に個人的の者ではない。我々の肉体の本は祖先の細胞にある。我々
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