る、而してこの分化発展が終った時実在の全体が実現せられ完成せられるのである。一言にていえば、一つの者が自分自身にて発展完成するのである。この方式は我々の活動的意識作用において最も明に見ることができる。意志について見るに、先ず目的観念なる者があって、これより事情に応じてこれを実現するに適当なる観念が体系的に組織せられ、この組織が完成せられし時行為となり、ここに目的が実現せられ、意志の作用が終結するのである。啻《ただ》に意志作用のみではなく、いわゆる知識作用である思惟想像等について見てもこの通りである。やはり先ず目的観念があってこれより種々の観念聯合を生じ、正当なる観念結合を得た時この作用が完成せらるるのである。
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 ジェームスが「意識の流」においていったように、凡《すべ》て意識は右の如き形式をなしている。たとえば一文章を意識の上に想起するとせよ、その主語が意識上に現われた時|已《すで》に全文章を暗に含んでいる。但し客語が現われて来る時その内容が発展実現せらるるのである。
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 意志、思惟、想像等の発達せる意識現象については右の形式は明であるが、知覚、衝動等においては一見|直《ただち》にその全体を実現して、右の過程を踏まないようにも見える。しかし前にいったように、意識はいかなる場合でも決して単純で受動的ではない、能動的で複合せるものである。而《しか》してその成立は必ず右の形式に由るのである。主意説のいうように、意志が凡ての意識の原形であるから、凡ての意識はいかに簡単であっても、意志と同一の形式に由って成立するものといわねばならぬ。
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 衝動および知覚などと意志および思惟などとの別は程度の差であって、種類の差ではない。前者においては無意識である過程が後者においては意識に自らを現わし来るのであるから、我々は後者より推して前者も同一の構造でなければならぬことを知るのである。我々の知覚というのもその発達から考えて見ると、種々なる経験の結果として生じたのである。例えば音楽などを聴いても、始の中は何の感をも与えないのが、段々耳に馴れてくればその中に明瞭なる知覚をうるようになるのである。知覚は一種の思惟といっても差支ない。
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 次に受動的意識と能動的意識との区別より起る誤解についても一言して置か
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