る者があって喜怒愛欲の情意を起すと思うが故に、情意が純個人的であるという考も起る。しかし人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接経験の事実である。
[#ここで字下げ終わり]
 万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう、勿論この説明法は幼稚ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。科学者の説明法は知識の一方にのみ偏したるものである。実在の完全なる説明においては知識的要求を満足すると共に情意の要求を度外に置いてはならぬ。
[#ここから1字下げ]
 希臘《ギリシャ》人民には自然は皆生きた自然であった。雷電はオリムプス山上におけるツォイス神の怒であり、杜鵑《ほととぎす》の声はフィロメーレが千古の怨恨であった(Schiller, Die Gotter Griechenlands[#「Gotter」の「o」はウムラウト(¨)付き] を看《み》よ)。自然なる希臘人の眼には現在の真意がその儘《まま》に現じたのである。今日の美術、宗教、哲学、みなこの真意を現わさんと努めているのである。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   第四章 真実在は常に同一の形式を有っている

 上にいったように主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である。我々が独立自全の真実在を想起すれば自らこの形において現われてくる。此《かく》の如き実在の真景はただ我々がこれを自得すべき者であって、これを反省し分析し言語に表わしうべき者ではなかろう。しかし我々の種々なる差別的知識とはこの実在を反省するに由って起るのであるから、今この唯一実在の成立する形式を考え、如何にしてこれより種々の差別を生ずるかを明《あきらか》にしようと思う。
[#ここから1字下げ]
 真正の実在は芸術の真意の如く互に相伝うることのできない者である。伝えうべき者はただ抽象的空殻である。我々は同一の言語に由って同一の事を理解し居ると思って居るが、その内容は必ず多少異なっている。
[#ここで字下げ終わり]
 独立自全なる真実在の成立する方式を考えて見ると、皆同一の形式に由って成立するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先ず全体が含蓄的 implicit に現われる、それよりその内容が分化発展す
前へ 次へ
全130ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング