ある。また実在を直視するというも、凡《すべ》て直接経験の状態においては主客の区別はない、実在と面々相対するのである、独り知的直観の場合にのみ限った訳ではない、シェルリングの同一 Identitat[#「a」はウムラウト(¨)付き] は直接経験の状態である。主客の別は経験の統一を失った場合に起る相対的形式である、これを互に独立せる実在と見做《みな》すのは独断にすぎないのである。ショーペンハウエルの意志なき純粋直覚というものも天才の特殊なる能力ではない、かえって我々の最も自然にして統一せる意識状態である、天真爛漫なる嬰児の直覚は凡てこの種に属するのである。それで知的直観とは我々の純粋経験の状態を一層深く大きくした者にすぎない、即ち意識体系の発展上における大なる統一の発現をいうのである。学者の新思想を得るのも、道徳家の新動機を得るのも、美術家の新理想を得るのも、宗教家の新覚醒を得るのも凡てかかる統一の発現に基づくのである(故に凡て神秘的直覚に基づくのである)。我々の意識が単に感官的性質のものならば、普通の知覚的直覚の状態に止まるのであろう、しかし理想的なる精神は無限の統一を求める、而してこの統一はいわゆる知的直観の形において与えられたのである。知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一せる状態である。
 普通の知覚が単に受動的と考えられているように、知的直観もまた単に受動的観照の状態と考えられている。しかし真の知的直観とは純粋経験における統一作用其者である、生命の捕捉である、即ち技術の骨《こつ》の如き者、一層深くいえば美術の精神の如き者がそれである。たとえば画家の興来り筆自ら動くように複雑なる作用の背後に統一的或者が働いている。その変化は無意識の変化ではない、一つの物の発展完成である。この一物の会得が知的直観であって、而もかかる直覚は独り高尚なる芸術の場合のみではなく、すべて我々の熟練せる行動においても見る所の極めて普通の現象である。普通の心理学は単に習慣であるとか、有機的作用であるとかいうであろうが、純粋経験説の立場より見れば、こは実に主客合一、知意融合の状態である。物我相|忘《ぼう》じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。知的直観といえば主観的作用のように聞えるのであるが、その実は主客を超越した状態である、主客の対立は
前へ 次へ
全130ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング