通に経験以上といっている者の直覚である。弁証的に知るべき者を直覚するのである、たとえば美術家や宗教家の直覚の如き者をいうのである。直覚という点においては普通の知覚と同一であるが、その内容においては遙にこれより豊富深遠なるものである。
 知的直観ということは或人には一種特別の神秘的能力のように思われ、また或人には全く経験的事実以外の空想のように思われている。しかし余はこれと普通の知覚とは同一種であって、その間にはっきりした分界線を引くことはできないと信ずる。普通の知覚であっても、前にいったように、決して単純ではない、必ず構成的である、理想的要素を含んでいる。余が現在に見ている物は現在の儘《まま》を見ているのではない、過去の経験の力に由りて説明的に見ているのである。この理想的要素は単に外より加えられた聯想というようなものではなく、知覚|其者《そのもの》を構成する要素となっている、知覚其者がこれに由りて変化せられるのである。この直覚の根柢に潜める理想的要素はどこまでも豊富、深遠となることができる。各人の天賦により、また同一の人でもその経験の進歩に由りて異なってくるのである。始は経験のできなかった事または弁証的に漸くに知り得た事も、経験の進むに従い直覚的事実として現われてくる、この範囲は自己の現在の経験を標準として限定することはできぬ、自分ができぬから人もできぬということはない。モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のように、その全体を直視することができたという、単に数量的に拡大せられるのでなく、性質的に深遠となるのである、たとえば我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができる宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであろう。或人の超凡的直覚が単に空想であるか、将《は》た真に実在の直覚であるかは他との関係即ちその効果|如何《いかん》に由って定まってくる。直接経験より見れば、空想も真の直覚も同一の性質をもっている、ただその統一の範囲において大小の別あるのみである。
 或人は知的直観がその時間、空間、個人を超越し、実在の真相を直視する点において普通の知覚とその類を異にすると考えている。しかし前にもいったように、厳密なる純粋経験の立場より見れば、経験は時間、空間、個人等の形式に拘束せられるのではなく、これらの差別はかえってこれらを超越せる直覚に由りて成立するもので
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