然らば運動表象の体系と知識表象の体系と如何なる差異があるであろうか。意識発達の始に遡《さかのぼ》りて見るとかくの如き区別があるのではない、我々の有機体は元来生命保存のために種々の運動をなすように作られている、意識はかくの如き本能的動作に副うて発生するので、知覚的なるよりもむしろ衝動的なるのがその原始的状態である。然るに経験の積むに従い種々の聯想ができるので、遂に知覚中枢を本とするのと運動中枢を本とするのと両種の体系ができるようになる。しかしいかに両体系が分化したといっても、全然別種の者となるのではない、純知識であっても何処かに実践的意味を有《も》っており、純意志であっても何らかの知識に基づいている。具象的精神現象は必ず両方面を具えている、知識と意志とは同一現象をその著しき方面に由りて区別したのにすぎぬのである、つまり知覚は一種の衝動的意志であり、意志は一種の想起である。しかのみならず、記憶表象の純知識的なる者であっても、必ず多少の実践的意味を有っておらぬことはない、これに反し偶然に起るように思われる意志であっても、何かの刺戟に基づいているのである。また意志は多く内より目的を以て進行するというが、知覚であっても予《あらかじ》め目的を定めてこれに感官を向ける事もできる、特に思惟の如きは尽《ことごと》く有意的であるといってもよい。これに反し衝動的意志の如き者は全く受動的である。右の如く考えて見ると、運動表象と知識表象とは全く類を異にせるものではなく、意志と知識との区別も単に相対的であるといわねばならぬようになる。意志の特徴である苦楽の情、緊張の感も、その程度は弱くとも、知的作用に必ず伴うている。知識も主観的に見れば、内面的潜勢力の発展とも見ることができる、かつていったように、意志も知識も潜在的或者の体系的発展と見做《みな》すことができるのである。勿論《もちろん》主観と客観とを分けて考えて見れば、知識においては我々は主観を客観に従えるが、意志においては客観を主観に従えるという区別もあるであろう。これを詳論するには主客の性質および関係を明にする必要もあるであろうが、余はこの点においても知と意との間に共通の点があるのであろうと思う。知識的作用においては、我々は予め一の仮定を抱きこれを事実に照らして見るのである、いかに経験的研究であっても必ず先ず仮定を有っていなければならぬ、而し
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