の要件ではない、或外界の事情のため動作が起らなかったにしても、意志は意志であったのである。心理学者のいうように、我々が運動を意志するにはただ過去の記憶を想起すれば足りる、即ちこれに注意を向けさえすればよい、運動は自らこれに伴うのである、而《しか》してこの運動その者も純粋経験より見れば運動感覚の連続にすぎない。凡《すべ》て意志の目的という者も直接にこれを見れば、やはり意識内の事実である、我々はいつでも自己の状態を意志するのである、意志には内面的と外面的との区別はないのである。
意志といえば何か特別なる力があるように思われているが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、或事を意志するというのは即ちこれに注意を向けることである。この事は最も明にいわゆる無意的行為の如き者において見ることができる、前にいった知覚の連続のような場合でも、注意の推移と意志の進行とが全く一致するのである。勿論注意の状態は意志の場合に限った訳ではなく、その範囲が広いようであるが、普通に意志というのは運動表象の体系に対する注意の状態である、換言すればこの体系が意識を占領し、我々がこれに純一となった場合をいうのである。或は単に一表象に注意するのとこれを意志の目的として見るのと違うように思うでもあろうが、そはその表象の属する体系の差異である。凡て意識は体系的であって、表象も決して孤独では起らない、必ず何かの体系に属している。同一の表象であっても、その属する体系に由りて知識的対象ともなりまた意志の目的ともなるのである。たとえば、一杯の水を想起するにしても、単に外界の事情と聯想する時は知識的対象であるが、自己の運動と聯想せられた時は意志の目的となるのである。ゲーテが「意欲せざる天の星は美し」といったように、いかなる者も自己運動の表象の系統に入り来らざる者は意志の目的とはならぬのである。我々の欲求は凡て過去の経験の想起に因りて成立することは明なる事実である。その特徴たる強き感情と緊張の感覚とは、前者は運動表象の体系が我々に取りて最も強き生活本能に基づくのと、後者は運動に伴う筋覚に外ならぬのである。また単に運動を想起するのみではまだ直《ただち》にこれを意志するとまでいうことはできぬようであるが、そは未だ運動表象が全意識を占領せぬ故である、真にこれに純一となれば直に意志の決行となるのである。
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