遠となるのである。もしこの世から尽《ことごと》くこれらの者を除き去ったならば、啻《ただ》に精神的向上の途を失うのみならず、いかに多くの美しき精神的事業はまたこれと共にこの世から失せ去るであろうか。宇宙全体の上より考え、且つ宇宙が精神的意義に由って建てられたるものとするならば、これらの者の存在の為に何らの不完全をも見出すことはできない、かえってその必要欠くべからざる所以《ゆえん》を知ることができるのである。罪はにくむべき者である、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。余はここにおいてオスカル・ワイルドの『獄中記』 De Profundis の中の一節を想「起さざるをえない。基督は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかった。彼はかつて世に知られなかった仕方において罪および苦悩を美しき神聖なる者となした。勿論罪人は悔い改めねばならぬ。しかしこれ彼が為した所のものを完成するのである。希臘人《ギリシャじん》は人は己《おの》が過去を変ずることのできないものと考えた、神も過去を変ずる能わずという語もあった。しかし基督は最も普通の罪人もこれを能《よ》くし得ることを示した。例の放蕩《ほうとう》子息が跪《ひざまず》いて泣いた時、かれはその過去の罪悪および苦悩をば生涯において最も美しく神聖なる時となしたのであると基督がいわれるであろうといっている。ワイルドは罪の人であった、故に能《よ》く罪の本質を知ったのである。
[#改ページ]
第五章 知 と 愛
[#ここから4字下げ、地は本文より2字上]
この一篇はこの書の続として書いたものではない。しかしこの書の思想と連絡を有すると思うからここに附加することとした。
[#ここで字下げ終わり]
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。然らば如何なる精神作用であるか、一言にていえば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。何故に知は主客合一であるか。我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想《もうそう》臆断《おくだん》即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽して物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時始めてこれを能《よ》くするのである。たとえば明月の
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