る、即ち愛は人格の欠くべからざる特徴である」といっている(Illingworth, Personality human and divine)。他の人格を認めるということは即ち自己の人格を認めることである、而《しか》してかく各《おのおの》が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であって、一方より見れば両人格の合一である。愛において二つの人格が互に相尊重し相独立しながら而も合一して一人格を形成するのである。かく考えれば神は無限の愛なるが故に、凡ての人格を包含すると共に凡ての人格の独立を認めるということができる。
 次に万物は神の表現であるという如き汎神論的思想に対する非難は、如何にして悪の根本を説明することができるかというのである。余の考うる所にては元来絶対的に悪というべき者はない、物は総べてその本来においては善である。実在は即ち善であるといわねばならぬ。宗教家は口を極めて肉の悪を説けども、肉欲とても絶対的に悪であるのではない、ただその精神的向上を妨ぐることにおいて悪となるのである。また進化論の倫理学者のいうように、今日我々が罪悪と称する所の者も或時代においての道徳であったのである。即ち過去の道徳の遺物であるということもできる、ただ現今の時代に適せざるが為に悪となるのである。されば物其者《ものそのもの》において本来悪なる者があるのではない、悪は実在体系の矛盾衝突より起るのである。而してこの衝突なる者は何から起るかといえば、こは実在の分化作用に基づくもので実在発展の一要件である、実在は矛盾衝突に由りて発展するのである。メフィストフェレスが常に悪を求めて、常に善を造る力の一部と自ら名乗ったように、悪は宇宙を構成する一要素といってもよいのである。固より悪は宇宙の統一進歩の作用ではないから、それ自身において目的とすべきものでないことは勿論《もちろん》である、しかしまた何らの罪悪もなく何らの不満もなき平穏無事なる世界は極めて平凡であって且つ浅薄なる世界といわねばならぬ。罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない。不満なく苦悩なき者は深き精神的趣味を解することはできぬ。罪悪、不満、苦悩は我々人間が精神的向上の要件である、されば真の宗教家はこれらの者において神の矛盾を見ずしてかえって深き神の恩寵を感ずるのである。これらの者あるが為に世界はそれだけ不完全となるのではなく、かえって豊富深
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