が直に我々に取りて無限の愛でなければならぬ。万物自然の発展の外に特別なる神の愛はないのである。元来愛とは統一を求むるの情である、自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛である。神の統一作用は直に万物の統一作用であるから、エッカルトのいったように神の他愛は即ちその自愛でなければならぬ。我々が自己の手足を愛するが如くに神は万物を愛するのである。エッカルトはまた神の人を愛するは随意の行動ではなく、かくせねばならぬのであるといっている。
以上論じたように、神は人格的であるというも直にこれを我々の主観的精神と同一に見ることはできぬ、むしろ主客の分離なく物我の差別なき純粋経験の状態に比すべきものである。この状態が実に我々の精神の始であり終であり、兼ねてまた実在の真相である。基督《キリスト》が心の清き者は神を見るといい、また嬰児の若《ごと》くにして天国に入るといったように、かかる時我々の心は最も神に近づいているのである。純粋経験というも単に知覚的意識をさすのでない。反省的意識の背後にも統一があって、反省的意識はこれに由って成立するのである、即ちこれもまた一種の純粋経験である。我々の意識の根柢にはいかなる場合にも純粋経験の統一があって、我々はこの外に跳出することはできぬ(第一編を看よ)。神はかかる意味において宇宙の根柢における一大知的直観と見ることができ、また宇宙を包括する純粋経験の統一者と見ることができる。かくしてアウグスチヌスが神は不変的直観を以て万物を直観するといいまた神は静にして動、動にして静といったのも解することができ(Storz, Die Philosophie des HL. Augstinus, §20)、またエッカルトの「神性」 Gottheit およびベーメの「物なき静さ」 Stille ohne Wesen といえる語の意味も窺《うかが》うことができる。すべて意識の統一は変化の上に超越して湛然《たんぜん》不動でなければならぬ、而も変化はこれより起ってくるのである、即ち動いて動かざるものである。また意識の統一は知識の対象となることはできぬ、総べての範疇を超越している、我々はこれに何らの定形を与うることもできぬ、而も万物はこれに由りて成立するのである。それで神の精神という如きことは、一方より見ればいかにも不可知的であるが、また一方より見ればかえって我々の
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