意識統一に由りて生ずるのである、神においては凡てが現在である。アウグスチヌスのいったように、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである。
次に意志の自由ということにも色々の意味はあるが、真の自由とは自己の内面的性質より働くといういわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志というようのことは啻《ただ》に不合理であるばかりでなく、此《かく》の如きものは自己においても全く偶然の出来事であって、自己の自由的行為とは感ぜられぬであろう。神は万有の根本であって、神の外に物あることなく、万物悉く神の内面的性質より出づるが故に神は自由である、この意味においては神は実に絶対的に自由である。かくいえば、神は自己の性質に束縛せられその全能を失うように見えるかも知らぬが、自己の性質に反して働くというのは自己の性質の不完全なるか或はその矛盾を示すものである。神の完全にして全知なることと彼の不定的なる自由意志とは両立することはできまいと思う。アウグスチヌスも「神の意志は不変であって時に欲し時に欲せず、況《いわ》んや前の決断を後に翻《ひるが》えす如きものにあらず」といっている(Conf. XII. 15)。選択的意志というが如きはむしろ不完全なる我々の意識状態に伴うべきものであって、これを以て神に擬すべきものではない。たとえば我々が充分に熟達した事柄においては少しも選択的意志を入るるの余地がない、選択的意志は疑惑、矛盾、衝突の場合に必要となるのである。勿論誰もいう如く知るという中には已《すで》に自由ということを含んでおる、知は即ち可能を意味しているのである。しかしその可能とは必ずしも不定的可能の意味でなければならぬことはない。知とは反省の場合にのみいうべきではない、直覚も知である。直覚の方がむしろ真の知である。知が完全となればなる程かえって不定的可能はなくなるのである。かく神には不定的意志即ち随意ということがないのであるから、神の愛というのも神は或人々を愛し、或人々を憎み、或人々を栄えしめ、或人々を亡ぼすという如き偏狭の愛ではない。神は凡ての実在の根柢として、その愛は平等普遍でなければならず、且つその自己発展その者
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