一せらるる者があって、統一する作用があるのである。仮に外界における物の作用を感受する精神の本体があるとするも、働く物があって、感ずる心があるのである。働かない精神その者は、働かない物その者の如く不可知的である。
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然らば何故に実在の統一作用が特にその内容即ち統一せらるべき者より区別せられて、恰も独立の実在であるかのように現わるるのであるか。そは疑もなく実在における種々の統一の矛盾衝突より起るのである。実在には種々の体系がある、即ち種々の統一がある、この体系的統一が相衝突し相矛盾した時、この統一が明《あきらか》に意識の上に現われてくるのである。衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。たとえば我々の意志活動について見ても、動機の衝突のない時には無意識である、即ちいわゆる客観的自然に近いのである。しかし動機の衝突が著しくなるに従って意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。然らばどこよりこの体系の矛盾衝突が起るか、こは実在その物の性質より起るのである。かつていったように、実在は一方において無限の衝突であると共に、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる半面である。衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである。
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我々が或一芸に熟した時、即ち実在の統一を得た時はかえって無意識である、即ちこの自家の統一を知らない。しかし更に深く進まんとする時、已《すで》に得た所の者と衝突を起し、ここにまた意識的となる、意識はいつも此《かく》の如き衝突より生ずるのである。また精神のある処には必ず衝突のあることは、精神には理想を伴うことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している(かく我々の精神は衝突によりて現ずるが故に、精神には必ず苦悶がある、厭世論者が世界は苦の世界であるというのは一面の真理をふくんでいる)。
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我々の精神とは実在の統一作用であるとして見ると、実在には凡て統一がある、即ち実在には凡て精神があるといわねばならぬ。然るに我々は無生物と生物とを分ち、精神のある者と無い物とを区別するのは何に由るのであるか。厳密にいえば、凡て
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