ウ着《どうちゃく》するのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、時が否定せられると考えられる世界の意識面的形成として、知識は形式論理的でなければならない。矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する世界から、その行為的直観的なる核を除去すれば形式論理的となるのである。しかし形式論理が行為的直観的な歴史的形成作用の外にあって、これと相媒介をなすのではなく、かえってこれに含まれているのでなければならない。知識は論理と直覚とが相対立し相媒介することによって成立するのではなく、具体的一般者の自己限定として成立するのでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、それが意識面的形成的に、即ち論理的に具体的一般者ということができる。モナドが世界を映すことは、世界のペルスペクティーフの一観点となることである。多と一との矛盾的自己同一的一般者、いわゆる弁証法的一般者の自己限定として、作られたものから作るものへと、ポイエシス的に、行為的直観的に実在を把握し行く所に、客観的知識が成立するのである(真の具体的一般者とは個物を含むものでなければならない、場所的でなければならない
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