Xが我々は手を有《も》つ故に理性的であるといった如く私は我々の概念的知識は手から得られたのであると思う。手は運動の機関であり把握の機関であると共に、製作の道具であるのである(Noire, Das Werkzeug【#「Noire」の「e」はアキュートアクセント付き】[『道具』])。
 動物より人間へという時我々は社会的となる。上にいった如く、社会においては既に個人というものがあるのである。社会というものは、ポイエシスを中心として成立するのである。我々の概念的知識というのは、固《もと》社会的制作から発展し来ったものでなければならない。物の概念とは、固社会的制作によって把握せられたものでなければならない。社会的制作的に把握せられる物の生産様式が概念的知識の起源となるのであろう。言語というものなくして思惟というものなく、言語学者は言語は固社会的共同作用に伴うという。而して概念的知識は生産様式的に生産的なればなるほど、真なのである。今日の科学といえども、かかる立場から発展し、また何処までもかかる立場を離れないものでなければならない。無論それは何処までもかかる立場を越えたものと考えられるであろう
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