轤ネい。而して世界が何処までも矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、現在が現在自身を越えると考えられ、自己自身を越えたものを映すとして、意識は志向的と考えられる。矛盾的自己同一的現在を中心として、世界は何処までも符号的に表現せられると考えられるのである。しかし世界が斯《か》く何処までも表現的に、換言すれば抽象概念的に考えられて行くというのも、それは行為的直観の現実からであり、世界はいつも絶対矛盾的自己同一として、かかる自己否定を契機として行くのである。我々はいつも絶対矛盾的自己同一に対しているのである、個物的なればなるほど、爾《しか》いうことができる。この故に絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、何処までも論理的ということができる。
絶対矛盾的自己同一の世界の自己形成において、時が消されると考えられる意識面においては、世界は何処までも動揺的である。そこには行為的直観が失われるとすら考えられる。我々は自由に考え自由に行い得ると考えられる。我々は絶対矛盾的自己同一として我々に臨むものから離れる。抽象的自由の世界があるのである。しかしそれは世界が亡び行く方向で
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