観的に物を作ることと考える。しかし如何《いか》に人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。隠喩《いんゆ》的でもあるが、アリストテレスはこれを「自然が作る」η φυσι※ ποιει【#「η」に帯気(「’」の反転したもの)付き、「※」はギリシア語小文字のファイナルSIGMA、「υ」はアキュートアクセント付き、「ι」はルド付き】という。無論|斯《か》くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。手が物を作るのでもない。然らば物を作るとは、如何なることであるか。物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない(ライプニッツのいわゆるコムポーゼの世界において可能である)。現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。これを何処までも多から
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