え得るかも知れないが、実在の世界にはないのである。
 具体概念というのが右の如く矛盾的自己同一的に動き行く世界の生産様式と考えられるならば、理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的であるということができる。而して我々はいつも此処《ここ》にロードゥスがある、此処で踊れといわなければならない。行為的直観の現実が、いつも矛盾の場所であり、事は此《ここ》に決せられるのである。思惟の真偽も此に決せられるのである。我々が表現作用的自己として単に世界を映すという時、我々は意識的である、作用的には志向的と考えられる。単にかかる作用が作用として形成的なる時、それは抽象論理的である。抽象作用とは表現作用的自己が記号的に世界を映ずることである(即ち言語的に)。然るにかかる立場から表現作用的に物を構成し行為的直観的にこれを現実に見ることによって、自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くのが、具体的論理である。行為的直観とは全体が無媒介的に一時に現前するという如きことではない。直観とは唯我々の自己が世界の形成作用として、世界の中に含まれているということでなければならない。

 個物は何処までも表
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