ナも自己自身を限定する我々は、無限なる欲求でなければならない、生への意志でなければならない。而《しか》して世界は我々を生むと共に我々を殺すものでなければならない。世界は無限なる圧力を以て我々に臨み来るものである、何処までも我々に迫り来るものである。我々はこれと戦うことによって生きるのである。抽象的な知的自己に対しては単に与えられたものという如きものが考えられるであろう。しかし個物的自己としての我々に与えられるものは、生死の課題として与えられるものでなければならない。世界とは我々に向って生死を問うものでなければならない。個物的自己に対して与えられる世界は、一般的な世界ではなく、唯一的な世界でなければならない。我々が個物的なればなるほど、爾《しか》いうことができる。そしてそれはまた逆に矛盾的自己同一的に世界が唯一的なればなるほど、個物は個物的となるということができる。この故に個物は絶対矛盾的自己同一、即ち絶対に対することによって、個物であるということができる。自己自身の生死を媒介とする所に、個物が個物であるということができる。而してそれが行為的直観を媒介とするということである。生物の種というものが出来るのも、かかる過程によるものでなければならない。
個物はいつも絶対矛盾的自己同一即ち自己の生死を問うものに対する。そこに矛盾的自己同一的に一つの生産様式というものが出来るかぎり、個物が生きるのである。無論そこには、いつも種々なる様式が可能でもあろう。種々なる種の成立する所以《ゆえん》である。多と一との絶対矛盾的自己同一の世界において、矛盾が解かれるかぎり、一つの種が成立するのである。行為的直観的なるかぎり、種的生命が成立するということができる。種も生命も既に弁証法的である(概念的であるのである)。種によって個が生き、個によって種が生きるかぎり、種の生命であるのである。生命はいつも動揺的である、動揺的なるかぎり生命というものがあるのである。弁証法的発展というのは、与えられたものを外から否定するのでなく、与えられたものそれ自身が自己矛盾的として、自己の内から自己を越え行くことでなければならない。生物的生命といえども、単に機械的でもなければ合目的的でもない。今日固定せる種と考えられるものも、無限なる弁証法的発展の結果として成立したものであり、それはまたいつかは変じ行くもの、亡び
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