な形成力でなければならない。作られたものから作るものへということは、作られたものは、種から作られたものでありながら、作るものを作るとしてイデヤ的である、世界的であるということである、種の形成が歴史的生産様式的であるということである。矛盾的自己同一的に何処までもかかる方向に進むことが歴史的発展の方向にほかならない。
動物の本能的動作においても、既に爾《しか》考えられる如く、我々の行為は我々が自己矛盾的に世界を映すということから起る、即ち歴史的身体的であるということから起る。而してそれは我々の行為は社会的に起るということである。私と汝との人格的対立も、社会的発展から出て来るのである。子供の自己意識は、社会的関係から発展するものでなければならない。社会というものが、矛盾的自己同一的現在の自己形成として成立するものなるが故である。生物的生命には、矛盾的自己同一的形成として生物的身体即ちいわゆる身体というものがある如く、歴史的生命には行為的直観的に歴史的身体即ち社会というものがあるのである。行為的直観というのは、矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界を、かかる世界の個物として我々が生産様式的に把握することである。ヘーゲルのいわゆる概念的に把握することである。ポイエシス的に実在をベグライフェンすることである。かかる行為的直観的なる歴史的身体的社会は、絶対矛盾的自己同一によって基礎附けられたものとして、何処までも自己矛盾的に自己自身を越え行かなければならない。しかしそれは何処までも自己自身を越え行くといっても、その実在的地盤を離れるのではない。これを離れれば、唯抽象的世界となるのほかない。単に抽象論理の立場から行為的直観の現実を否定することはできない。否定は現実の自己矛盾からでなければならない。与えられるものは、歴史的個人的に与えられるのである。生命の矛盾は生命の成立する所にある。そしてそれは何処まで行っても矛盾である。人間に至って矛盾の極に達する。矛盾の立場からは、何処までも矛盾を脱することはできない。宗教家が原始罪悪というものを考える所以である。禁断の果実を食ったアダムの子孫として、我々は原罪を負うて生れるのである。
三
矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する世界は、多と一との矛盾的自己同一の世界であり、かかる世界の個物として、何処《どこ》ま
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