ら理解せられなければならない(行動心理学においてのように)。人間の本能は単にいわゆる身体的形成ではなくして、歴史的身体的即ち制作的でなければならない。人間の行為は表現作用的に世界を映すことから起るのである、制作的身体的に物を見ることから起るのである。行為的直観的に物を見るということは、制作的身体的に物を見ることである。
我々は制作的身体的に物を見、斯《か》く物を見ることから働く制作的身体的自己においては、見るということと作るということとが矛盾的自己同一的である。物を制作的身体的に見るということは、物を生産様式的に把握することである、即ち具体概念的に把握することである。表現作用的自己として、矛盾的自己同一的現在の立場において物を把握するのである。それが真の具体的論理の立場であろう。そこに真なるものが実なるものである。抽象的知識とはかかる立場を離れたものとも考えられるであろう。しかしかかる実験の立場を離れて客観的知識というものはない。学問的知識の立場といえども、かかる立場を否定することではなく、かえってかかる立場に徹底し行くことでなければならない。矛盾は我々の行為的直観的なる所、制作的身体的なる所にあるのである。この故に矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと、作られたものとして与えられたものを越え行くのである。而してその極、全然行為的直観的なるもの、身体的なるものを越えたものに到《いた》ると考えられるでもあろう。しかしそれは何処までも此処《ここ》から出立したものであり、此処に戻り来るものでなければならない。無限の過去と未来とが相互否定的に現在において結合し世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成するという時、世界は何処までも超身体的として記号によって表現せられる、即ち単に思惟的と考えられるであろう。しかしそれはまた何処までも我々の歴史的身体を離れるということではない。
絶対矛盾的自己同一の世界において、我々に対して与えられるものといえば、課題として与えられるものでなければならない。我々はこの世界において或物を形成すべく課せられているのである。そこに我々の生命があるのである。我々はこの世界に課題を有《も》って生れ来るのである。与えられたものは単に否定すべきものでもなく、また媒介し媒介せられるものでもない。成し遂げらるべく与えられたものである、即ち身体
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