境の中に没することによって、環境そのものの中から生きる主体にして、歴史的主体ということができる。そこでは環境は与えられたものでなく、作られたものであるのである。そこに真に主体が環境を脱却するということができる。生物的生命の世界はなおアン・ウント・フュール・ジヒの世界ではない。)
生物的生命の世界といえども、右にいった如く既に矛盾的自己同一的であるが、作られたものから作るものへとして、矛盾的自己同一に徹することによって、歴史的世界は生物の世界から人間の世界へと発展する。歴史的生命が自己自身を具体化するのである、世界が真に自己自身から動くものとなるのである。かかる発展は単に生物的生命の連続としてというのではない。さらばといって、単に生物的生命を否定することによってというのでもない。その自己矛盾に徹することである。生物的生命といえども既に自己矛盾を含んでいる。しかし生物的生命はなお環境的である、いまだ真に作られたものから作るものへではない。かかる自己矛盾の極限において人間の生命に達するのである。無論それは幾千万年かの歴史的生命の労作の結果でなければならない。作られたものから作るものへという労作的生命の極において、主体は環境の中に自己を没することによって生き、環境は自己否定的に主体化することによって環境となるという域に達するのである。
過去と未来とが矛盾的に現在において結合し、矛盾的自己同一として現在から現在へと世界が自己自身を形成し行く、即ち世界が生産的であり、創造的である。身体は生物的身体的ではなくして歴史的身体的である。我々は作られたものにおいて身体を有つのである。人間の身体は制作的である。我々は生物的個体として既に自己否定的に世界を映すことによって欲求的である、本能作用的に形成的である。絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界においては、我々は何処までも表現作用的形成の欲求を有っている、制作欲を蔵している。この故に多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、真の個物であるのである。我々が表現作用的に世界を形成することは逆に世界の一角として自己自身を形成することであり、世界が無数の表現的形成的な個物的多の否定的統一として自己自身を形成することである。生物の本能的形成においても、既に爾《しか》いうことができる。本能というのも、生物と世界との関係か
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