え得るかも知れないが、実在の世界にはないのである。
 具体概念というのが右の如く矛盾的自己同一的に動き行く世界の生産様式と考えられるならば、理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的であるということができる。而して我々はいつも此処《ここ》にロードゥスがある、此処で踊れといわなければならない。行為的直観の現実が、いつも矛盾の場所であり、事は此《ここ》に決せられるのである。思惟の真偽も此に決せられるのである。我々が表現作用的自己として単に世界を映すという時、我々は意識的である、作用的には志向的と考えられる。単にかかる作用が作用として形成的なる時、それは抽象論理的である。抽象作用とは表現作用的自己が記号的に世界を映ずることである(即ち言語的に)。然るにかかる立場から表現作用的に物を構成し行為的直観的にこれを現実に見ることによって、自己自身を形成する世界の生産様式を把握し行くのが、具体的論理である。行為的直観とは全体が無媒介的に一時に現前するという如きことではない。直観とは唯我々の自己が世界の形成作用として、世界の中に含まれているということでなければならない。

 個物は何処までも表現作用的に自己自身を形成することによって個物である。しかしそれは個物が自己否定において自己を有つということであり、自己自身を形成する世界の一角であるということである。世界は無限なる表現作用的個物の否定的統一として自己自身を形成し行く。かかる世界において個物が世界の自己形成を宿すという時、個物は無限に欲求的である。我々が欲求的であるということは、我々が機械的であるということでもなく、単に合目的的ということでもない。世界を自己の内に映すということでなければならない。世界を自己形成の媒介とするということでなければならない。動物の生命というものも、既に此《かく》の如きものでなければならない、即ち既に意識的でなければならない。動物といえども、高等なればなるほど、いわば一種の世界像を有っていなければならない。無論それは意識的にとか自覚的にとかいうのではない。しかし動物の本能作用というのは一種の形成作用でなければならない。昔、ハルトマンなどの考えた如き無意識ともいうことができる。動物は無意識的に自己自身を形成する世界を宿すことによって本能的であるのである。
 絶対矛盾的自己同一の世界は、過去と未来と
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