形成せられることである。見るということと働くということとの矛盾的自己同一をいうのである。過去と未来とが現在において相互否定的に結合する、即ち現在が矛盾的自己同一として過去未来を包む、現在が形を有《も》つという時、そこに私のいわゆる自己自身を形成する世界があるのである。世界は一つの現在として、作られたものから作るものへと無限に自己自身を形成し行く。我々はかかる世界の個物として意識的に世界を映すことによって形成的であり、而して自己矛盾的に世界を形成し行く、即ち表現作用的である(表現作用とは世界を媒介として働くことである)。そこに我々は我々の生命を有つのである。
行為的直観的に物を見るということは、世界の生産様式的に物を把握することでなければならない。かかる意味において物を見ることは世界を映すことである。ヘーゲルの如き意味において概念的に実在を把握することは、此《かく》の如きことでなければならない。物を具体概念的に把握するというのは、(作られて作るものとして)物を歴史的生産様式的に把握することでなければならない。かかる立場から把握せられる物の本質がその具体概念である。具体概念とは抽象作用によって作られるのではない、行為的直観的に把握せられるのである。そこに作ることが見ることである、表出即表現である。我々は個物として世界を映すことから働き、行為的直観的に物を構成することによって、実在を歴史的生産様式的に即ち具体概念的に把握するのである。この故に芸術家の創造作用の如きものでも、制作によって生産様式的に物の具体概念を把握するということができる(かかる意味において美も真である)。しかし無限なる過去と未来とが現在において結合し、絶対矛盾的自己同一として自己自身を形成し行く世界は、超越的方向においては全く記号的に表現せられる世界でなければならない。世界のかかる方向においての生産様式即ち物の具体概念を、行為的直観的に把握し行くのが実験科学である。そこでは私の行為的直観とは科学的実験ということである。物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。私の行為的直観とは単に受働的なる直覚をいうのではない。また単に行為を否定した受働的な直覚という如きものは、抽象概念的に考
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