dites de Maine de Biran【#“inedites”の“ine”の“e”はアクサン付き】[『メーヌ・ド・ビラン未刊行著作集』]を購入することができたので、晩年の Fondements de la psychologie[『心理学の基礎』]や Anthropologie[『人間学新論』の略称]などを読むことができた。今でも私は時に J'agis, jeveux, donc je suis[我行為す、我意志す、故に我あり]などいう語を引用することがある。しかしクーザンの出版したものは、遂に手に入れることができなかった。従って受働的習慣と能働的習慣との区別を論じた有名な最初の論文などは、近頃ティスセランの出版の全集が出るまでは読むことができなかった。能働的習慣と受働的習慣との区別の如きは面白い洞察と思う。コンディヤックの感覚論から出でて、その立場を守りながらかえって主意主義的な理想主義的な立場に行ったのである。私はこういう所に、サン・アンチームの哲学独得の、ドイツやイギリスの哲学と異なったものがあると思うのである。習慣という如きことは、普通は、哲学的に重要な役目を有つとは考えられないのであるが、ラヴェッソンなどの哲学においては、習慣というものが世界観の根本的な役目をしている。ラヴェッソンはシェリングの影響を受けたというが、シェリングの同一が、メーン・ドゥ・ビランの影響によって、ラヴェッソンにおいて習慣となったと考えられるのは面白い。如何に同様な考え方がドイツとフランスとによって異なるかが分る。ロックの経験論の影響を受けたコンディヤックの流からメーン・ドゥ・ビランなどが出たのも同様である。無論、コンディヤックの感覚というのが、既にロックなどの感覚というものと同一のものでなかったかも知れない。

 フランス哲学で合理主義といっても、単に概念的でない。デカルトが clare et distincte[明晰判明]という所に、既に視覚的なものがある。優れたフランスの思想家の書いたものには、ショペンハウエルが深くて明徹なスウィスの湖水に喩《たと》えたようなものが感ぜられる。私はアンリ・ポアンカレのものなどにそういうものを感ずるのである。

 我国では明治の初年は如何にあったか知らないが、大体二十年頃以前は英国哲学の影響を受け、二十年頃以後はドイツ哲学の影響を受けて、今日に至ったといい得るであろう。私はドイツ哲学の優秀を疑うものではないが、右にいったように、フランス哲学にはフランス哲学に独得なものがあり、それはドイツ哲学やイギリス哲学にはないものであると思う。概念的体系に捕われて案外に内容の貧弱なものよりも、かえって直覚的な物の見方考え方において優れた所があるかと思う。私は考えるに、ギリシャ哲学には深い思索的な概念的な所と、美しい芸術的な、直感的な所があった。前者はドイツ人がこれを伝え、後者はフランス人がこれを伝えたといい得るではなかろうか。



底本:「日本の名随筆 別巻92『哲学』」作品社
   1998(平成10)年10月25日発行
底本の親本:「西田幾多郎随筆集」岩波書店
入力:加藤恭子
校正:nns
2000年8月29日公開
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