史的実践的自己にあるのである。歴史的行動というものの外に、実践というものがあるのではない。我々が思惟するということも、歴史的行動であるのである。作られて作る所に、我々は自覚するのである。故に我々の自己は歴史的身体的である。然らざれば、それは考えられた自己たるに過ぎない。かかる自己に執着するのが迷である。絶対否定即肯定ということは、判断的自己の立場からいい得ることではない。それは作り作られる歴史的自己の立場、生死的自己の立場においてでなければならない。道元《どうげん》は自己をならうことは自己をわするるなり、自己をわするるというは、万法に証せらるるなりという。我々は抽象的意識的自己を否定した所、身心一如なる所に、真の自己を把握するのである。今や我々はかかる真の実践的自己、身心一如的自己の自覚の立場から、従来の哲学を考え直して見なければならない。私が再びデカルトの立場へと主張する所以《ゆえん》である。しかしかかる立場においての論理は、デカルトの主語的論理でないことはいうまでもなく、ヘーゲルの弁証法とも異なったものでなければならない。ヘーゲルの論理は弁証法といえども、なおアリストテレス的主語的たるを免れない。客観的精神の論理であって、歴史的実践の世界の、歴史的形成力の論理ではない。我々は歴史的実践の世界においての論理的意識発生の根源に返って、歴史的実践の世界の自己形成の論理を把握せなければならない。それはヘーゲルの理念的弁証法と逆の立場に立つものであろう。歴史的世界の自己形成においては、形相と質料とが何処までも相反するとともに、矛盾的自己同一として、形相から質料へ、質料から形相へ、形が形自身を限定するのである。そこに真に実在即当為、当為即実在である、内外一如的であるのである。
 デカルトが神の存在証明について、「第三省察」においていった如き神と自己との関係は、個が全を表現することが全の自己表現となることであり、全一と個多との矛盾的自己同一的に事が事自身を限定することから世界が成立する、自己の始が世界の始であり、世界の始が自己の始であるという矛盾的自己同一の論理から、直《ただち》に理解せられるであろう。両者の対立、相互関係は、自己自身を形成する歴史的世界の両契機として考えられねばならない。有限と無限と矛盾的自己同一の両端として、自己と神とがあるのである。而《しか》して絶対現在の瞬間的自己限定として、我々の自己は、神によって次の瞬間に存在するのである。私の絶対現在とは、多と一との絶対矛盾的自己同一的形式にほかならない。更に「第五省察」において、神の概念が自己存在を含むとなし、神は欺かないということから、逆に我々の知識の客観性を基礎附けているが、我々に明晰判明なる直観的知識というのは、我々の自己が自己否定において物に証せられる知識であるのである。そこに我々の自己が世界の自己表現の過程として、行為的直観的に見るのである。超越的なる神の媒介を要すると考えるのは、主語的論理の形式に囚《とらわ》れいるが故である。それは分らないものを、更に分らないものを以て説明するにほかならない。完全無欠なる存在というのは、自己自身によってあり、自己自身を限定するものでなければならない。それは表現するものが表現せられるものであり、自己自身を表現するものとしてあるものである。かかる存在形式においては、あるものは自己自身を証明するもの、自己自身を証明するものはあるものでなければならない。かかる意味において、神はそれ自身によってあり、それ自身によって理解せられるものとして、スピノザの如く、すべてあるものは神に於《おい》てあり、神なくして何物もあることもできず、理解することもできないということができるのである。冬の或《ある》日の夜、デカルトは炉辺に坐して考え始めた。彼は歴史的現実的自己として、歴史的現実において考え始めたのである。彼は疑い疑った。自己の存在までも疑った。しかし彼の懐疑の刃《やいば》は論理そのものにまで向わなかった。真の自己否定的自覚に達しなかった。彼の自己は身体なき抽象的自己であったのである。
「何にてもあるものはすべて神に於てあり、神なしに何物もあることも理解することもできない」というスピノザの、それ自身に於てあり、それ自身によって理解せられる神は、絶対矛盾的自己同一的に自己自身を限定する絶対現在、あるいは絶対空間というべきものでなければならない。それは無基底的基底として、歴史的世界の基体と考うべきものである。斯くして、スピノザ哲学に新なる生命を与えることができるであろう。スピノザは、デカルト哲学から、徹底的に主語的方向に向った。そこに我々の自己の自覚的独立性は消されて、神の様相となった。神は何処までも否定的実在となったのである。神は絶対現在として何処までも映されたものから映すものへの方向において、過去から未来への方向において空間的であり、逆に映すものから映されたものへの方向において、未来から過去への方向において時間的であり、意識的である。神は一面に res extensa として空間的であり、一面に res cogitans として意識的である。斯くして二つの属性が考えられる。様相とは、絶対現在の自己限定として、自己自身を限定する形にほかならない。一面には何処までも空間的であり、一面には何処までも意識的である。ordo et connexio idearum idem est, ac ordo et connexio rerum(Prop. 7. p. 2.)ということができる。
 スピノザの原因というのは、すべてカウザ・スイの意義を有《も》ったものと考うべきであろう。本質が存在を含み、その本質が存在としてのみ理解せられるものをいうのである。絶対現在の自己限定としてあるものは、すべて表現するものが表現せられるものとして、かかる性質を有ったものでなければならない。事即理、理即事である。スピノザの十全なる知識とは、絶対の自己否定において自己自身を見る、自覚的直観を意味するものでなければならない。自己が万法に証せらるる所に、我々の知識は十全であるのである。スピノザはいう、我々に十全にして完全なる思想があるということは、神が人間の精神を構成するかぎり、神において十全にして完全なる思想があるということにほかならないと(Prop. 34. p. 2.)。そこに我々は絶対矛盾的自己同一的に自己において神を見、神において自己を見るのである。かかる立場において、我々の自己はその成立の根柢において宗教的であり、哲学的知識は此《ここ》に基礎附けられるのである。故に哲学の方法は否定的自覚であり、哲学の対象は対象なき対象である、自己自身に於《おい》てあり、自己自身によって理解せられる真実在である。スピノザも、十全なる思想とは対象に関係なく、それ自身において考えられるかぎり、真なるもの、即ち対象と一致するものを意味するといっている(Def. 4. p. 2.)。そこに考えるものと考えられるものとが一でなければならない。スピノザの有名なる知的愛 amor Dei intellectualis もこれに基礎附けられるのである。十全なる知識を有するかぎり、我々は有力である、幸福である。これは対象認識的たる科学的知識とは、その方向を異にするものでなければならない。スピノザも外物については、我々の精神は不十全なる知識しか有せないという。十全と不十全とは程度の差ではなくして、性質的に異なっていなければならない。そこに立場の相違がなければならない。
 デカルト以来、十全なる知識といえば、数学的知識の例を以て説明せられる。スピノザ哲学の十全なる知識も、往々|爾《しか》解せられる。しかし爾考えられるならば、スピノザ哲学も数学的主知主義に堕するのほかない。而《しか》して今日の無矛盾性の数学は、果して当時考えられたる如く十全なりや否や。スピノザ哲学においては、右の如き立場の相違が明《あきらか》にせられなかったのは、主語的論理的であった故であると思う。そこには論理的立場の転回がなければならない(「予定調和を手引として宗教哲学へ」参照)。しかし私は右の如く科学と哲学との相違を明にすべきを主張するものではあるが、一派の学者の如く単に両者を無関係的に考えるものではない。哲学は科学を尊重し、科学を材料とするとともに、科学は哲学に基礎附けられねばならない。ガリレイをば根柢なしに建てたと評したデカルトの目的は、新自然学の形而上学的基礎附にあったともいわれる。しかしそれは両者の立場を混同して、科学の中に哲学を入れるという如きことではない。唯、科学隆盛以来、哲学は科学の下婢《かひ》となったという感なきを得ない。輓近《ばんきん》に至って、単に認識論的となり、更に実用主義的ともなった。哲学は哲学自身の問題を失ったかと思われるのである。

 私はデカルト哲学へ返れというのではない。唯、なお一度デカルトの問題と方法に返って考えて見よというのである。デカルト哲学はカントのコペルニクス的転回によって覆《くつが》えされた。しかし今日カント哲学の立場そのものが、再び批判せられなければならぬのではなかろうか。カントの哲学的方法即哲学的方法ではない。哲学の方法は何処までもデカルト的でなければならない。何処までも否定的自覚、自覚的分析である。この故に哲学は個人主義的とか自由主義的とかいうのではない。哲学は自己を否定すること、自己を忘れることを学ぶのである。この世界歴史の大転換期に当って、何処までも日本文化の根柢を掘り下げて、我々の思想は深く大なる基礎の上に築き上げられなければならない。真の行動のためには、デカルトもいう如く省察と認識とが問題とならなければならない。
 既にいった如く、哲学は我々の自己の自己矛盾性から出立するのである。疑そのものが問題となるのである。私は我々の自己の自己矛盾性から、相反する二つの方向に行くことができると思う。一つは自己肯定の方向であり、一つは自己否定の方向である。西洋文化は前者の方向へ行ったものであり、東洋文化は後者の方向にその長所を有《も》つということができる。しかし今や我々は自己矛盾性の根元に返って、真の矛盾的自己同一の立場から出立せねばならぬと思う。そこに東西文化の融合の途《みち》があるのである。而して私は東洋文化から発展した我々の日本文化の精神には絶対現在の自己限定として、現実即絶対的に矛盾的自己同一的なるものがあると考えるのである。人は西洋文化を論理的と考え、東洋文化を単に体験的という。しかし東洋文化を単に体験的というならば、西洋文化の根柢にも体験的なものがあると思う。矛盾的自己同一的なる我々の自己の真の自覚から、対象認識の方向へ行くということは、必ずしも論理的必然ではない。そこには西洋民族の主観的性向が潜んでいるということができる。唯、自己否定的方向に向った東洋文化においては、それ自身の論理というものが発達しなかった。しかし西洋文化に撞着《どうちゃく》した今日、我々は、我々自身の論理を有《も》たなければならない。然らざれば、飛行機なくして、戦に臨むと択《えら》ぶ所がない。私は東洋文化の根柢に論理があると考えるものである。而してそれは今日の科学の基礎とも結合するものと思う。「論理と数理」の論文において触れた如く、私は推論式というものが、固《もと》、真の矛盾的自己同一論理の形式でなければならないと考えるのである。従来はギリシヤ論理から発達して、すべて分類的論理の形式が基となっていたのではなかろうか。



底本:「西田幾多郎哲学論集3[#「3」はローマ数字3、1−13−23] 自覚について」岩波文庫、岩波書店
   1989(平成元)年12月18日第1刷発行
※本文中[]で囲まれた編者による注記は削除しました。
入力:nns
校正:土屋隆
2004年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング