閨A本質が存在である(essentia=existentia)。かかる実在の立場から無限の当為が出て来るのである。我々の自己が唯一的に個となればなるほど、自己自身を限定する事として、絶対の当為に撞着《どうちゃく》するのである。あるいは我々の自己の自覚を離れて、単なる物の知識、単なる物の存在というものもあるではないかといわれるかも知れない。しかしそれらの基礎附けも、深く考えれば考えるほど、かつてデカルトが試みた如く自覚からでなければならない。
 哲学の問題は、如何《いか》にして純粋数学、純粋物理学が可能なるかというに始まるのでもなく、単に知識がある、知識は如何にしてというに始まるのでもない。科学というも、歴史的世界において発展し来ったものである。認識論者が知るという時、既に対象認識の意味に限定しているのである。知る者そのものは既に除去せられているのである。しかし知るものなくして知るということは考えられない。此《ここ》に深い矛盾がある、問題がある。しかも一度対象認識の立場に立った以上、何処《どこ》までも知るというものは視野に入って来ない。実在界とはいわゆる認識形式に当嵌《あてはま》ったもの
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