ーられなければならない。真の行動のためには、デカルトもいう如く省察と認識とが問題とならなければならない。
 既にいった如く、哲学は我々の自己の自己矛盾性から出立するのである。疑そのものが問題となるのである。私は我々の自己の自己矛盾性から、相反する二つの方向に行くことができると思う。一つは自己肯定の方向であり、一つは自己否定の方向である。西洋文化は前者の方向へ行ったものであり、東洋文化は後者の方向にその長所を有《も》つということができる。しかし今や我々は自己矛盾性の根元に返って、真の矛盾的自己同一の立場から出立せねばならぬと思う。そこに東西文化の融合の途《みち》があるのである。而して私は東洋文化から発展した我々の日本文化の精神には絶対現在の自己限定として、現実即絶対的に矛盾的自己同一的なるものがあると考えるのである。人は西洋文化を論理的と考え、東洋文化を単に体験的という。しかし東洋文化を単に体験的というならば、西洋文化の根柢にも体験的なものがあると思う。矛盾的自己同一的なる我々の自己の真の自覚から、対象認識の方向へ行くということは、必ずしも論理的必然ではない。そこには西洋民族の主観的性向
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