轤ニいうのでもない。論理的に出立するということを、主観的と考えるのも、自己というものを主語的に考えて、思惟をその作用と考える故である。しかし論理が自己に属するのではなくして、論理から自己へである。自己とは、矛盾的自己同一的論理の個物的自己限定として考えられるのである。然らざれば、論理といっても、昔、英国心理学者のいったように観念|聯合《れんごう》の作用に過ぎない。
カントの批評哲学の的となったのは、右の如き主語的実在の独断であった。直覚の形式を離れて推論式的に実在を考えることが、超越的弁証法の虚偽に陥ることである。それは主語的論理そのものの自己矛盾である。そこで実在そのものの意義が変ぜられねばならない。いわゆる認識主観の綜合統一によって構成せられたものが客観的実在である。我々の自己は自己否定において自己を見る。実在の根拠が、かかる超越我の自覚に求められた。かかる意味において、私はカント哲学の方法をも否定的自覚と考えるのである。批評哲学は、科学に対する否定自覚であったと考えるのである。しかしカント哲学は果して真に否定的自覚に徹したであろうか。カントは主語的方向に超越的実在を否定したが、
前へ
次へ
全41ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
西田 幾多郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング